社畜飼育日記。 | ナノ





私はこの日、人生最大と言っていい程の屈辱を味わう事になる。人として、と言うよりは女としての、だ。
私が住む1Kのアパートの部屋は8畳。それにロフトが付いているが、高い所が得意ではない私はフローリングに普通にシングルサイズのベッドを置いて寝ている。こたつ兼テーブルを挟んで向かい合った彼は、明るい所で見るとそれなりに整った顔をしていた。鼻筋は通っているし、分厚い眼鏡の奥の瞳はクッキリと大きい。だからと言って急に特別な感情を抱いたりはしないけれど、パッと見そんな風には思わせないような気怠さが勿体無いとは思う。
冷蔵庫にある食材で作った夕飯を、彼はそれはそれは美味しそうに食べてくれた。凄い勢いで口に運ぶものだから、時々噎せてその度に私が水を差し出した。何だか同年代の男性というより、小さい子供やペットを相手にしている気分だ。
「…ごちそう、様でした。美味かったです」
おかずも全て平らげて満足したらしい彼は、そこでようやく少し皺のついたスーツのジャケットを脱いだ。
「あ、そうだ、スーツ…!貸して下さい、消臭剤と皺伸ばし、かけるんで」
軽く頭を下げた後差し出された上着にスプレーをする。スチームアイロンもかけた方がいいかな、それにズボンも汚れている筈だ。しかしうちには男物の着替えなんてない事に気付く。
「…えっと、どうします…?着替え、とか」
「……え、」
「ごめんなさい、何も無いんですよ、うち。コンビニで下着くらい買った方が、」
「…いや、何言ってるんですか?」
心底不思議そうな顔でこちらを見る彼に、私も首を傾げる。
「え、だって、お風呂とか」
「……? 俺、もう帰りますけど」

自分の耳を疑ってしまったのは、私が破廉恥な女だからだろうか。そうでは無いと思いたい。男性の方から「家に行きたい」と言われて、何も想像しないほど純粋な女性が世の中に一体どのくらいいるのだろう。少なくとも私は、残念ながらその純粋さを持ち合わせていなかったようだ。
「か、帰るん、ですか…?」
「…何かマズイですか?飯食わせてもらったお陰で、このまま歩いて帰れそうなんで。明日も、仕事、だし」
真顔でそう言う彼に、自分の顔が耳まで熱くなるのを感じた。勿論羞恥で、だ。初めて会った見ず知らずの男性に何を期待したんだろう。セックスするんだと思ってました、なんて言える訳がない。ただ恥ずかしくて、こんな状況で二人きりなのに何も思われない自分が何だか情けなくて。それに明日は土曜日だ。仕事、だなんてこんな変な女から逃げる口実に決まってる。
「い、いや、何でもないです!お礼できてよかった、助けてくれて、ありがとう、ございました!」
受け取ったばかりの上着を突っ返し、黒い重そうな鞄を持たせて玄関へと促す。そういえば名前すら聞いていなかった彼が何か言ったような気がしたがそんな場合じゃない。それより早くこの部屋から出て行って欲しくて半ば無理矢理外へと追いやった。
「……もしかして何か、期待して、」
「っ、…うるさい!!!さよなら!!!」
扉を閉めるとチェーンまでかけて台所へ座り込んだ。最後、彼は言わずもがな私の浅ましい気持ちに気付いていたらしい。もしも期待していた、と正直に言っていたらどうなっただろうか。見るからに積極性のなさそうな男だ、私みたいな女は軽蔑の対象かもしれない。
足音が躊躇いもなく遠ざかって行くのが聞こえて、何だか悲しみも怒りも通り越して少しだけ笑えた。今度の女子会で、笑い話にしてやろう。そうでもしなきゃやってられない。私は冷蔵庫からビールを出して一気に煽ると、先日買っておいたファッション誌で流行りの服を見繕う事にした。勿論サークルのOB会に向けてだ。明日の休みはショッピングに出かける事を決めると、少しだけ気分が晴れていった。






乾杯、と当時の幹事の挨拶で始まった映画同好会のOB会。私たちは先輩後輩関係なく仲が良くて、よく集まっている方だと思う。この居酒屋を使うのも何回目かで、いつも同じ様な場所に意中の彼、ヤスハル先輩は座っているのに、今日はいない。来るって聞いていたけど、遅くなるのかな。奮発して買ったワンピースは告白用だ。他の人たちと喋りながら、服を汚さない様に気を付けていた、その時。
「悪い、遅れた!電車遅延しててさ、」
「お、やっと来たな本日の主役!みんな、ちょっと注目ー!」
開いた扉から入ってきたのは、ヤスハル先輩…、と、その後ろにOB会に参加することは珍しい同学年のナツエ先輩。みんなが一斉にそちらを見ると、二人は照れ臭そうにはにかんで、言った。

「あー、…急なんだけど、実は俺たち、結婚、することに、なりました」

ヤスハル先輩の言葉に周囲がざわつく。幹事の先輩を始め先に報告を受けていた人もいたようで、直ぐに「おめでとーー!」という祝福が飛び交った。

…私はと言えば、状況が飲み込めずただ幸せそうな二人を見ていた。どうして、頻繁では無いがLINEで連絡を取ることもあったし、何度か二人きりで食事に行ったこともある。そんな素振りなんて一度も感じなかった、それなのに。
「えー、いつから付き合ってたの!?」
「いや、…実はね、在学当時に俺らちょっとだけ付き合ってたんだ。卒業して自然に別れて、ナツエはOB会も来ねーし何年も会ってなかったんだけどさ、この前仕事先で本当に偶然一緒になって。取引先の担当がこいつだったんだ。何かすげー運命感じて、俺からすぐプロポーズした。ほんと、一ヶ月くらい前だよ」
誰かの声に、ヤスハル先輩が答える。その後ろで控えめに笑うナツエ先輩はあまり話した事はないが小柄で可愛らしい人だ。一ヶ月前、なんて私が友人に嬉々と先輩のことを話していた時期で、その頃先輩は別の人と、婚約、していて。
…ああ、流石に笑えない。確かに私は先輩に男女として何かされた事も言われた事もなくて、完全に自分一人で舞い上がっていただけなのだ。恥ずかしいのか、悔しいのか、そういえば最近もどこかでこんな感情を抱いたような気がする。でも、その時とはこの気持ちは比べ物にならない。
楽しげな雰囲気、沢山の笑い声。それに耐えられなくなった私は、荷物を持ってその場から逃げ出した。誰もそんな私に気付かないのが悲しい。このまま帰ってしまおうかと歩き始めた出口へ向かう細い廊下で、前から来た人と肩がぶつかる。避けたつもりだったのに、つくづく今日は最悪な日だ。謝るために顔を上げた、そこには、


「……げ…、」
「……あ、」
私を見下ろす、分厚い眼鏡の奥の黒々とした瞳。先日私が(勝手に)酷い思いをした、例の冴えないサラリーマンだ。しかも今日はヨレヨレのスーツに若干伸びた無精髭と、前回より様子が悪化している。
「…どうも」
「な、なんで、あなたがここに」
「何でって…、飲み会、なんで。…それより、」
"泣いてます?"
と言って少し跼み、彼は私の顔を覗き込んできた。泣いてなんかない、ただ少し悲しかっただけ。そして自分が馬鹿だっただけで、泣く権利なんてない、それなのに。
「な、いてなっ……っ、!」
指摘されるとその通りにどんどん涙が溢れてくる。こんな、会うのはたった二度目の名前も知らない男の前で。止まらない涙を手で拭っていると、黙ったままの彼から青いハンカチが差し出された。失礼かもしれないが、装いに似合わずそのハンカチは綺麗だ。素直に受け取ると少しだけ指先が触れた。
「…あの、」
「あれー!?高崎!?来てたのかよ!!…って、叶絵ちゃん?何で泣いてんの!?」
何か言いかけた彼の背後から、上機嫌な幹事の先輩が顔を出した。私と彼を交互に見て何か言っている。って、…え?
「どうも。先輩、お久しぶりです」
「お、おう。マジで何年振りだよお前。誘っても全然来ねーんだもんよ」
「すみません、仕事、忙しくて」
「みたいだな。でも今回は来てくれたんだな!……んで、高崎。叶絵ちゃん、何で泣いてんの?」
私は再び思考停止状態に陥った。だって何で、私のよく知っている幹事の先輩とこの人が親しげに話しているの?
「え……、あの、先輩…?この人…、知り合い、ですか?」
気付けば涙も引っ込んで、そう聞いた私に幹事の先輩は一旦間を置いて、信じられないものを見るような目でこちらを見た。
「…何言ってんだよお前、え、マジで覚えてねーの?お前らの二個下の、高崎良生だろ。喋ったこととか、無かったの?」

改めてよく見ると、感情の読めない表情を浮かべた彼と視線が交わる。だって、それって、同じサークルだったってことで。
ゆっくりと口を開いた彼は、少しだけ笑ったようにも見えた。

「…ああ、確か。松本、叶絵さん、でしたっけ」
あの日部屋に入れた彼が、本当は知り合いだったなんて。
…人間の脳というものは、一ヶ月もすれば大半のことを忘れてしまうらしい。ならば、数年前のことは?覚えてなくても、仕方がない、よね?



next…

中々話が進まなくて申し訳ないです。社畜くんのデザインは気に入っちゃってグッズ作ったりとか自分の中で一人歩きしてます笑
頭の中で思ってる事が勝手に文章になるひみつ道具欲しい!
2017.07.06 emu
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