2.「あたしは前にナナリー様を抱き締めたことある?」


修学旅行の話をシャーリーに聞いて、『あたしも準備しなきゃ』と思った数日後、エリア11に新総督が赴任する話をスザクから聞いた。
新総督を迎える準備の為、静かな政庁は慌ただしくなり、学校を休んで会場の設営や新総督がお休みになる部屋の清掃を手伝った。

新総督の名はナナリー・ヴィ・ブリタニア皇女殿下。
ブリタニア皇位継承第87位。年齢は14歳。
『足が不自由で目も見えないんだ』とスザクから聞いて、私室に飾る花を真剣に考えた。
心が安らげるような、いい匂いがする花を。

初めてお会いする女性の軍人さん3名と私室の清掃をして、ナナリー皇女殿下の補佐を務める事務官の女性────アリシア・ローマイヤさんが最終確認をした。
手元の端末に何か入力していて、厳格な表情に緊張して息が詰まる。

「いいでしょう」

清掃具合に問題は無いようだ。
そしてローマイヤさんに、自分の持ち場に戻るよう言われた。
「イエス、マイロード」と異口同音の返事が聞こえ、遅れてあたしも「はい」と言っている間に3人はキビキビと出ていった。
あっという間にローマイヤさんと二人きりだ。
あたしも退室しなければ、と思ったら────

「ソラ・ラックライトさん」

鋭いダメ出しを言ってくるような厳しい声にビクッとした。

「ッ、はい!!」

なにかダメな事をしてしまった!?

「枢木卿から子細聞いています。
皇帝陛下に“ラックライト”の名を賜ったあなたなら、ナナリー様もお認めになるでしょう」

冷たく厳しい声、息苦しくなる眼差しに萎縮する。
嬉しくなる事を言われているのに全然安心できない。
ド緊張しながらも、返事をなんとか絞り出す。

「ありがとうございます……」
「ここは私が施錠します。先に退室を」

ローマイヤさんに促されて急いで廊下に出る。
そのままスタスタ帰るべきか、改めて挨拶してから去るか、ド緊張で頭が真っ白になって決められなかった。
帰るタイミングを逃してしまって、内心、冷や汗がぶわっと出た。
結んでいる唇をわずかに開き、呼吸する。
これはもう挨拶してから去るしかない。

ローマイヤさんが施錠している間、息を殺して待機していたら。
通路の向こう側から、きらきら輝くお姫様が現れた。
車椅子に乗っていて、それをスザクが押している。
空気がふわっと軽くなる。

「ナナリー様」

厳格な表情をわずかに崩し、ローマイヤさんは驚いた。
ナナリー皇女殿下がここに来るのは彼女にとって想定外の出来事みたいだ。
皇族の方をこんな近くで見れるなんて思いもしなかった。
興奮だろうか。高揚感でふわふわする。
言葉が出なくてぼんやりしてしまった。

「すみませんミス・ローマイヤ。
約束の時間になる前に、わたくしの部屋を清掃してくださった方々にご挨拶をしたいと思ったのです」
「言っていただければ連れて参ります。
総督自ら来ていただかなくても……」
「少しお話しするだけです。
その為だけにわざわざ来てもらうわけにはいきません」
「ミス・ローマイヤ、会場と機材の最終確認を」

スザクの声にいつもの優しさがない。表情もだ。
公私を完璧に分ける上官の顔をしていた。
ナナリー皇女殿下はふわりと微笑んだ。

「お願いします、ミス・ローマイヤ。
すぐ戻りますから」

ローマイヤさんは姿勢を正し、キリッとした声で返事をして行ってしまった。
後ろ姿を見送った後、ナナリー皇女殿下はこちらに向き直る。

「わたしはナナリー・ヴィ・ブリタニアです。
あなたの名前を教えてください」
「は、初めまして、ナナリー皇女殿下。
あたしはソラ・ラックライトです」
「……ソラさん。
本日は、わたしが過ごす部屋を清掃してくださってありがとうございます」

皇帝陛下が自分の中の皇族のイメージだ。
だから気さくに名前を呼ばれて、親しげにお礼を言われて、あたしはめちゃくちゃ戸惑った。

「い、いえ、そんな……。
感謝されるような事は……」

花が咲くような笑顔は友好的だ。
本当に恐れ多くて、ナナリー皇女殿下の笑顔をまともに見れなくなる。

「そんな……かたくならないでください。
わたしも以前は、皇族とは縁遠いところで、お姉さまのように思っていた方と暮らしていたんです。
だから、緊張されたら困ってしまいます……。
親しくしてほしいんです」

今のナナリー皇女殿下はローマイヤさんと話していた時と違って、年相応のかわいくて柔らかい声音だ。

「スザクさんにもそうしてもらってるんです。
ね、スザクさん」

スザクがやっと微笑んだ。
いつもの優しい表情にホッとする。

「近くに誰も居ない時だけね。
僕も“ナナリー”と呼んでるよ」
「だからソラさんも。
ソラさんも……」

柔らかな笑顔から一変して、今にも泣きそうな顔をした。
それを見た瞬間、あたしの頭の中から“皇族”が吹き飛んだ。
無意識に歩み寄っていて、彼女よりも低い位置にしゃがんでいた。

「本当に、スザクのように呼んでもいいんですか……?」

言い終わってからハッと我に返り、サーーーーーッと血の気が引く。
皇族であり総督である方に無断で急接近しちゃうなんて!
他の軍人さんに見られたら『不敬極まりない!』と厳罰に処されるのではと恐ろしくなった。

「もちろんです!」

力強く頷かれた。
全身をこちらに向けている。
本当にいいの?と思いつつ、あたしも頷いた。

「……わ、分かりました。
それでは近くに誰もいない時だけ」
「ありがとうございます!」

満面の笑みは本当に嬉しそうだった。
その笑顔に、胸の奥深いところから何かがせり上がってくる。
見たかったものを見れた喜びが溢れてくる。

その後、ローマイヤさんと約束した時間が近づいたのか、
『公務が全て終わったらお話ししたいです。スザクさんと共にわたしの部屋に来てくださいね、空さん』とナナリー様は言った。
お辞儀してから、離れていく二人の後ろ姿を見送る。
まるで夢を見ているようだ。ぼんやりしてしまう。

「ナナリー様、あたしのこと……」

スザクみたいに呼んでくれた。
初対面なのにどうして。

「……スザクが話したのかな?」

初めてじゃない感じがした。
懐かしくなって目のあたりが熱くなる。
以前のあたしは、誰か年下の女の子と仲が良かったのかもしれない。


  ***


ナナリー様の就任挨拶は医務室のモニターで見ることになった。
先生の生徒だった人が2名、放送前に遊びに来ることが決まり、大急ぎでお茶の準備をした。

「こぉーんにーちはぁー!」

ちょうどお湯が沸いたタイミングだった。
あたしのいる所と先生のいるあっちではパーテーションで仕切られている。
声は聞こえるけど訪問者の姿は見えない。
男の人の声はすごく陽気だ。

「いらっしゃーいアスプルンド君!」
「ワンワン先生ぇー!!」
「こんにちはぁ、失礼します」

さらにもうひとり、穏やかな声の女の人だ。
準備した物を運びたいけど、賑やかな空気の中に顔を出すのは少し気まずい。

「お久しぶりです、ワンダーランド先生」
「いらっしゃいクルーミー君。
ゆっくりしていってね」
「ありがとうございます!」

アスプルンドさんとクルーミーさん……聞いたことのある声だなぁ……。
準備したものをティートレイに乗せ、音がカチャカチャ鳴らないように気を付けて運ぶ。
パーテーションからひょっこり出てきたあたしに、アスプルンドさんとクルーミーさんは笑顔を向けてくれた。

「あ。キミそんなところに隠れてたんだねぇ」
「急な訪問ごめんなさい。
私達のこと、ワンダーランド先生に聞いてる?」
「教えていただきました。
先生の生徒だった、ということだけ。
『あとは会ってからのお楽しみだよ』って」
「それだけ? 他には……」
「ふふ、ワンワン先生らしいねぇ」

来客用のテーブルに運んでいたものを置く。

「自分はソラ・ラックライトです。
先生の被験者で、生体データを提供しています」

あたしはスザクや先生の善意で政庁に居させてもらっているけど、それを初対面の軍人さんには正直に話せない。
その肩書きは先生が考えてくれた“政庁で暮らす為のそれっぽい理由”だ。
『先生の被験者です』と言えば、怖くて厳しい軍人さんは全員納得してくれる。

あたしの自己紹介にアスプルンドさんは半笑いを浮かべ、クルーミーさんは笑顔を曇らせた。

「ごめんなさいソラちゃん。
私達、あなたの事をスザク君に聞いてるの」
「ボク達はナイトオブセブン直属の開発機関“キャメロット”の人間だよ。
ランスロットを開発したのもボク達。
ぼんやりしてるキミに何回か会いに行ったりもした。
おめでとォー! やっと話せるねぇ!!」

特徴的な言葉に、頭の中で何かが繋がった。
音や声だけしか聞こえない時、同じことを前にも言われたのを思い出す。

「セシルさんとロイドさん!?」

ビックリして大声が出た。
慌てて口を塞ぎ、モゴモゴしながら「ごめんなさい」と謝る。

「今気づきました。あの時はありがとうございます。
話しかけてくださっていたのに……ずっと返事ができなくて……」
「返事なんて出来るわけないわ。
元気になって本当に良かった。
話せるようになって……すごい奇跡だわ」

ぐす、とセシルさんは涙ぐむ。
ロイドさんは自分でカップにお茶をいれた。

「僕達は色々知りすぎてるからねぇ。
『もしかしたらずっとこのままかも』なーんてあの時は思っていたよ。
お帰りなさい」

パチッとウィンクする。
ロイドさんは先生みたいな人だった。

「お帰りなさい、ですか……。
……そう言ってもらえると不思議な気持ちになります」

セシルさんにもお茶をいれる。
「ありがとう、ソラちゃん」と笑いかけてくれて、お姉さんみたいな人だなぁと思った。
先生は優しいおじいちゃんの笑みでニコニコしながらお茶を飲んでいる。
壁掛け時計から時刻を知らせる音が鳴り、先生はモニターの電源を入れた。
壇上にいるナナリー様の全身が映る。 
後ろにはスザクが立っていて、騎士みたいに凛としていた。

『皆さん、初めまして。
私はブリタニア皇位継承第87位、ナナリー・ヴィ・ブリタニアです」

報道用のカメラがズームして、ナナリー様の顔が大きく映った。

『先日亡くなられたカラレス公爵に代わり、この度エリア11の総督に任じられました
私は見ることも歩くこともできません。
ですから色々と、皆さんの力を借りることと思います。
どうか、よろしくお願いします』

かわいらしくて可憐で、だけど意志が強い、堂々とした声。
医務室は静かだ。全員が集中して聞き入っている。

『早々ではありますが、皆さんに協力して頂きたいことがあります。
私は、“行政特区日本”を再建したいと考えています』

医務室の空気が一変したのを肌で感じた。
セシルさんもロイドさんも先生も驚き、動揺しているのを見て、気づいた。
それがスザクの避けていた話題だと。
知らないほうがいいと思って、ずっと聞かないでいた話。

『“特区日本”ではブリタニア人とナンバーズは平等に扱われ、イレヴンは日本人という名前を取り戻します。
かつて、“特区日本”では不幸な行き違いがありましたが、目指すところは間違っていないと思います。
等しく、優しい世界を。
黒の騎士団の皆さんも、どうかこの“特区日本”に参加してください。
互いに過ちを認めれば、きっとやり直せる。
私はそう信じています』

挨拶を終えた後、ナナリー様はスザクと共に画面外に行ってしまった。
ローマイヤさんもすぐに後を追う。
そこで先生はモニターを消した。
いつもの表情だけど……無理して微笑んでいるように見える。
今の話はあたしが知らなきゃいけない話だ。

「先生……“行政特区日本”というのは……?」
「ソラちゃん、スザク君には……」
「……聞いてないみたいだね」

ロイドさんが小さく呟いた。
ドキドキする心が、ざわざわし始まる。
余裕が無くなっていく。

知る方法はいくらでもあった。
でもあたしは知ろうとしなかった。
スザクが教えてくれる事だけで十分だと思ったから。
スザクが話したくないなら聞かない。
急に話題を変えても追求しないし、踏み込まない。
ずっとそうやってきた。

「スザクが話せない事を……あたしは聞かないでいました。
でもそれはダメだと思ったんです。 
スザクが話せないなら他の人に……」
「ラックライトさん」

穏やかな声に引っ張られて、あたしの目と耳が先生に向いた。

「知りたいと思うならもう一度聞いてみるといい。
全てを打ち明けられなくても、知ってほしいと思える事は話してくれるはずだよ」

先生の優しく語りかける声と、真剣に見つめてくれる眼差しに、ざわざわした心が落ち着いていく。

「はい」

笑顔で頷くことができた。


  ***


ナナリー様の公務は夜になっても終わらないみたいだった。
先生に提出する報告書をまとめた後、ベッドにぼふんと座る。
スザクが来るまで何してようかな……と考えていたら、目からぼろっと水が出た。
だいぶ久しぶりだけど、戸惑ったりしない。
わし掴みしたタオルで目を覆い隠し、空いてる右手で水筒を手繰り寄せてそばに置く。
さらにリモコンを操作してテレビモニターもつける。
音楽番組だ。曲だけが聞こえてくる。

突然の涙に心は動かない。
通り雨みたいな感覚だ。
水分補給しながら涙が止まるのを待つことにする。

────そうやってずっと待っていたのに、涙は出るばかりだった。
普段ならもう止まっているはずなのに。
息苦しくなってタオルを下ろす。
少し目を閉じれば、まぶたの内側で涙がどんどん溜まっていく。
開けばドパッとこぼれ落ちて、開けっ放しの蛇口みたいに流れていく。
視界がぼやけ、頭はぼんやりして、いつもと違う涙に呼吸が乱れていく。
意識して深呼吸しながらバスルームに行った。
くたくたになったタオルを洗面台に置き、ふわふわしたタオルを手に部屋に戻る。
水筒は空っぽだ。
びしょ濡れの頬は拭いても意味が無いから放置して、冷蔵庫から出した水をごっくんごっくん飲む。
ブハッと息を吐けば、涙がさらにボロッと落ちた。飲んだ水がそのまま出たみたいだ。

「どうしよう……。
スザクもうすぐ来るよね……?」

こんな状態でナナリー様のところに行けない。
ふわふわのタオルで目を隠し、涙に負けて悲しい気持ちにならないように、気を引き締めてゆっくりと深呼吸した。
コンコン、とノックの音が響き、慌ててタオルを目にグッと押し当てる。
扉が開く音と……

「空、お待たせ」と笑顔のスザクの声も聞こえた。
『スザクを心配させないように』と強く思った。

「ありがとう。
ごめん、ナナリー様のところに行けなくなった。
いつものやつが出ちゃって。いつ止まるか分からなくて……」

声が震えないように意識する。

「ナナリー様を待たせたくないから……。
ごめん、こんな理由で。
せっかくナナリー様が話す時間を作ってくれたのに……」
「ナナリーには会いたくない?」
「会いたくないって……そりゃ会いたいよ」

皇族の方が、軍人でもないブリタニア人でもないあたしに『お話ししたいです』と言ってくれた。
そんなの言われたらもう、会いたい!!!!だ。
でも今のあたしはこんなのだ。
満足に話せないし、気を使わせてしまう。
それは嫌だし申し訳ない。

「良かったです。
空さんに会いたいって思ってもらえて」
「え!? 来たんですかッ!?」

ビックリしてすごい失礼な事を言ってしまった。
車椅子の動く音が近づいてくる。
思わず頭を抱えて、顔の半分をタオルで隠す。

「スザクさんから聞きました。
自分の意思に反して、涙が突然出てしまうと。
今も出ているんですか?」
「は、はい」
「目を冷やすものを持ってきました。
手を出してくれますか? 後で使ってください」
「はい……」

空いてる手を出せば、モフッとしたものを持たせてくれた。
柔らかくてひんやりしている。
顔を伏せたまま、タオルをずらす。
薄紫色のアイピローだった。
涙が止まったら早速使いたい。すごく大事にしようと心に誓った。

「ありがとうございます……!」

言って気づいた。今この部屋に他の人はいない。
ナナリー様が『親しくしてほしい』と願っているなら、もっと違う言い方だ。

タオルで目を拭い、顔を上げる。
そばにいるナナリー様がよく見えた。
涙ですぐに視界がぼやけたけど。

「ありがとう、ナナリー」

急にナナリー様が手を伸ばしてきて、いきなり左頬を触れてきた。
驚いて硬直する。

「空さん、人の体温は涙に効くんです。
だからこのままで」

素手で涙を拭ってくれる。
知り合ったばかりなのに、他人なのに、どうして。
自分の涙がナナリー様の手を汚す。
それが申し訳なくて、情けなくて、だけど安心した。

「空さんが忘れても、空さんをずっと大切に思っている人がいます。
その人に会えるまで、私も空さんのそばにいさせてください」

また涙が溢れてくる。
勝手に流れる通り雨みたいないつもの感じと違う。
心が震えて出てくる涙だ。

胸の奥から強い何かが湧き上がってくる。
『帰りたい』と思ってしまう。
ルルーシュさんの時と同じ感覚だ。
強い気持ちがいっぱい溢れてくる。
口をついて出そうだ。
思いを、願いを、声に出しそうになる。

「ナナリーさま」

唇を噛み、沈黙する。

だめ。言っちゃだめ。打ち明けちゃいけない。こんな。こんな気持ちを。優しいナナリー様に押し付けちゃいけない。この気持ちは。願いは絶対に。

息を整えた。
大丈夫。ちゃんと隠せる。
ちゃんと笑顔で言える。

「ありがとう。
ナナリーに寄り添ってもらえた……その記憶だけで、あたしはずっと幸せです」
「空さん……」

左頬の手が離れた。
ナナリー様は悲痛な面持ちで、ぽろぽろと泣き出してしまった。

「な、ナナリー……?」

何かとんでもなく悪いことをしてしまった気分になる。

「……空さん。
すごく……すごく苦しいんです……。
わたしに、元気が出るおまじないをしてください……」
「はい!」

罪悪感が募るまま返事をする。
頭の端で『スザクのヤツそのことまでナナリー様に話したのか』と恥ずかしく思う自分がいた。
美しいドレスを涙で汚さないように拭いて────すぐに涙がボロッとこぼれたけど────小柄なナナリー様を抱き締めた。
罪悪感を、懐かしさが塗り替える。
驚いて一瞬息が止まった。
ずっと前に。
同じように抱き締めた事が前にもあった気がする。

驚きが消えないまま、ローマイヤさんが来てしまった。
ナナリー様は悲しそうな顔のまま帰ってしまって、胸の奥がすごく痛い。
感じた懐かしさが消えない。
涙は止まらないけど、それがどうでもよくなるほど強烈だった。

「空」

心配する声に、あたしはやっとスザクを見れた。

「スザク」
「何かあったのかい?」

あたしの異変に気づいてる表情だった。
言えるわけない。
でも、スザクには隠したくない。

「……あたしは前にナナリー様を抱き締めたことある?
初対面じゃないよね……?」

いくらナナリー様が優しくても、今日会ったばかりの他人にあんな風には寄り添わない。
『そばにいさせてください』なんて言うはずない。
家族か大切な人が相手じゃないと……。

スザクは無言だ。
困惑しきった、驚いた表情であたしを見つめて絶句している。
やってしまった!! あたしはなんて馬鹿なことを!
言ってしまって後悔する。

「ごめん! 変な事言って!!
そんなわけないのに勘違いしちゃった!!
今のは忘れてほしい……!!」

涙は今も流れている。
泣きすぎて顔が熱くて、全部が腫れてるようにひどかった。頭も重い。
勝手に溢れる涙は生ぬるい。
自分のものとは思えなくて、もっと別の所から流れてきているような気がした。

スザクに背を向けて水分補給する。
頭の中はスッキリするけど、出てくる涙にまたぼんやりしてくる。

「空、先生の所に行く?」
「うん……。
でも今は……少し寝ようかな。
泣き疲れたみたい…」

ふらふら歩き、スザクが使ってない方のベッドに倒れ込む。
自分の部屋よりこっちが冷蔵庫とトイレに近い。
先にタオルで目を隠し、ブランケットを手繰り寄せ、ゆっくり深呼吸する。

「空。
新しいタオルと水をそばに置いておくから」
「ありがとう」

感じた懐かしさは消えない。
涙を拭ってくれた手の温度は、今も心を温めている。
今日、ナナリー様と過ごした時間は、ずっと覚えていたい、忘れたくない記憶になった。

「スザク……」
「なんだい?」

至近距離から穏やかな声が聞こえた。
頭の左側を優しく撫でてくれる。
すごく落ち着く、大好きな手だ。
心がさらに温かくなる。

「今日、ナナリー様と話して思ったの。
『ナナリー様を助けたい』『ナナリー様の力になりたい』って。
だから手伝いたい。ナナリー様の“行政特区日本”を。自分に出来る精一杯で」

撫でる手がピタリと止まった。

「……手伝いたい、か。
そう思ってくれたんだね。
空、ごめん。
僕はキミに……話さなきゃいけないのに黙っていた」
「ううん。言えない事は言わなくていいんだよ」

聞くなら今しかない、そう思った。

「でも、話せる事があるなら教えて。
あたしに知ってほしいと思える事、聞かせてほしい」
「空、今日はやめよう。
僕の話は今のキミには話せない。
先に眠ったほうがいい。明日にでも……」

左手を上げ、スザクの手に重ねた。

「今聞きたい。
スザクはナイトオブセブンだよ。明日から一緒にいられないかもしれない……。
お願い、聞かせて。
どんな話でも知りたいの」
「……わかった」

右手でタオルを外す。
あたしを見下ろす、スザクの顔がよく見える。
苦しそうだった。

「ナナリーが“行政特区日本”の再建を宣言した。
今後、政庁の中や外、思いがけない場所で、他の人が話している声を、きっとキミは聞いてしまう。だからその前に話すよ。
僕が全てを……ちゃんと話すから」

ホッとして頷いた。
止まらない涙をタオルで拭こうとしたら、スザクが先に動いてふわふわのタオルを敷いてくれた。
辛そうな顔がほんの少しだけ柔らかくなっている。

「……僕にもいたんだ。
手伝いたいと、助けたいと心から願った人が。
名は、ユーフェミア・リ・ブリタニア皇女殿下……僕はユフィと呼んでいた。
キミの友人で、このエリア11で副総督をされていた」

あたしの友人。
ユーフェミア様もあたしも、お互いを大切に思っていたのかもしれない。

「『笑顔が見たい』と言っていた。
“行政特区日本”を考えたのはユフィだ。
『私の大切な人が、大切な人と一緒にいられるように』と願って」

誇らしげに微笑んでいる。
スザクも同じように願っていたのかもしれない。
イレヴンじゃなくて日本人として生きられる場所────“行政特区日本”を希望や救いに思っていたはずだ。
スザクから微笑みが消える。

「ユフィはゼロの参加も望んだ」
「え!?」

ビックリして思わず声を上げてしまった。 

「……ごめん」
「やっぱり驚くよね。
“行政特区日本”設立の宣言をした時、ユフィは言ったんだ。
過去も、その仮面の下も問わないと。
一緒にブリタニアの中に新しい未来をつくりましょう、と」
「一緒に……」

そういえばナナリー様も黒の騎士団の参加を望んでいた。
ユーフェミア様の意志を継いだんだ。

少しだけ起きて、先ほどより多く水分補給してからまた横になる。

「“行政特区日本”の参加申請は20万人を越え、開設記念式典にも大勢の日本人が集まった。
報道のカメラも入り、参加しないブリタニア人もゲットーにいる日本人にも、会場の映像は届けられた。
ゼロはひとりで式典会場に来た。
ユフィは喜んでいたよ。
宣言から当日に至るまでゼロの返事は一切無く、参加しないだろうと思っていたから。
来て早々、ゼロはユフィに言った。『2人きりで話したい』と。
それをユフィは快諾した」
「えっ!? 2人きりで!?」

耳を疑った。
だって相手は正体不明の人間だ。
スザクが何度も戦ってきた武装組織のリーダーだ。

「ほ、本当に2人きりで……?」
「ああ。
危険だと全員が判断して、検知器でゼロを調べたよ。
誰が何を言っても考えを変えてくれなかった。
せめて僕だけでも、と思って申し出たけど、ユフィは頷かなかった。 
『大丈夫です。私を信じて下さい』と……」

スザクは苦しそうに顔を歪めた。
何かを強く後悔している瞳だった。
まぶたを閉じ、すぐに開く。
表情が淡々としたものになる。
感情を隠して、スザクは続けた。

「ユフィとゼロが戻るのを待っていた。そこから先を……僕は覚えていない。
僕もユフィのSPも、突然意識を失ってしまったから。
ここから先は……先生やロイドさん達、多くの人が知っている事実を話すよ」

心臓がやけにドキドキする。
嫌な胸騒ぎがして、呼吸が乱れる。
知らない話を聞いてる気がしない。
忘れてしまったけど、あたしは多分、その時式典会場にいた。

「報道のカメラは、映像は……世界中に中継されていた。
ひとり戻ってきたユフィが日本人1名を射殺し、場内に配置された警護隊に命令した。
日本人は全て抹殺しろと。
虐殺を命じたんだ」

息が詰まり、呼吸ができない。
嘘みたいな話をスザクは言う。

「その命令に従い、警護隊はサザーランドで場内の日本人を虐殺していった。
黒の騎士団の“ブラックリベリオン”はそれがきっかけだ。
意識を取り戻した僕は無我夢中でユフィを捜した。
そこで……」

スザクは言葉を切り、ゆっくり深呼吸する。 
どう言っていいのか悩んでいるようだ。続きを話そうとはしない。
あたしはやっと息を吸えた。
涙は止まらなくて、喉が震えて息苦しい。
しばらく待つ。
スザクは口を開いてくれた。

「……ユフィは殺された。
ゼロが撃ち、それが致命傷になって……。
本国では、皇籍抹消の上で処刑と記録されている。
ユフィが亡くなった後、彼女の名を公の場で口にする者はいなくなった。
日本人は……今もユフィを憎んでいる」

話し終わり、スザクは沈黙する。
あたしも何も言えない。
言葉が出てこない。

「先に、少しで良いから飲もう」

返事もできない。
起きようとしたら手伝ってくれて、また水分補給する。苦しいのがすごく楽になった。
こちらの様子を伺うスザクの眼差しは優しい。
聞いた話をあたしが受け止めるまで待ってくれている。

「……スザク」
「うん」
「ひとりで戻ってきたユーフェミア様は本当にユーフェミア様だった?
すごいそっくりな偽者じゃなくて?」

スザクはわずかに微笑んだ。

「そんな風に考えたのは空が初めてだよ。
もちろん本人だ。偽者なんかじゃない」
「本人なわけない。
スザクに生きる希望をくれた方だよ。ぎゃく、虐殺……なんて、絶対命令しない……」

勝手に出てくるもの。心が震えて溢れるもの。そのニ種類の涙が、まるでどしゃ降りの雨のように流れていく。
話すたびに息苦しくなっていく。
息が上がる。うまく喋れない。
うまく息を吸えない。
それでも喋るのを止められない。

「大切な人の幸せを願って、笑顔になる方法を考えて、実行できる、優しくて、つよい人だよ。
そんな人が、そんな人が、殺すわけない……!!」

本当は分かってる。
ユーフェミア様が参加者の日本人を殺して、虐殺を命じたのは真実だ。
苦しくて、辛くて、力が入らなくなり、ふらっと倒れそうになる。
スザクがすかさず支えてくれた。

「そうだ。殺すわけないんだ」

血を吐くような声に、胸がもっと痛くなる。

「……空、キミにだけ真実を話す。
これは誰にも言っちゃいけない」

スザクの真剣な顔を一心に見つめ、頷いた。

「ゼロは超常の力を持っている。
人を操り、その時の記憶を失わせる力だ」

嘘みたいな話をスザクは言う。
でも、嘘だとは思わない。
心から信じられる話だ。
あたしが一番聞きたかった話。

「ゼロはその人が絶対やらないことを強制できる。
ユフィは『日本人は皆殺しにしないといけない』と言っていた。
僕が力の存在を知ったのは虐殺の後だ。
もっと早く気づけていたら……僕はユフィとゼロを2人きりにはしなかった」

ゼロがユーフェミア様に言った『2人きりで話したい』の本当の意味が分かった。
心の底から恐ろしくなり、ゾッとした寒気に襲われる。

「2人きりになった後、ゼロはその力を使い、日本人を殺すように命令した。
ゼロの力は、呪いだ。終わりがない。
死ぬまで……日本人を殺し続けていただろう。
死の間際、ユフィはやっとゼロの力に抗えた。
自分を取り戻したんだ」

真実を話し終わったようだ。
スザクは小さく呼吸する。
話を聞いて、理解しても、あたしの中にはスザクと同じような強い怒りや深い絶望は湧き上がらない。
憤ることより、悲しむことより、恐怖を感じた。

「どうして……ゼロはそんなひどいことを……。
人間じゃない……」
「そうだ。
最低で、最も卑劣な男だ。
自分の目的の為ならどんなことだって」
「今現れたゼロと1年前のゼロは同じ人間なの?」
「……分からない。
1年前のゼロは僕が捕縛し、皇帝陛下に捧げた。
ゼロはもう超常の力は使えない。
公の場に戻ることなんて出来るわけがないんだ」
「それじゃあ、別人だね」

ホッとして全身の力が抜けた。
また水分補給する。

「よかった……」
「よかった?」
「……うん。
超常の力をゼロが使えなくなったから」

誰もユーフェミア様みたいにはならない。
そう思うと、不安や恐怖が薄らいでいった。

「“その人が絶対やらないことを強制できる”
すごく恐ろしい力だよ。
相手を支配して思い通りに動かして……たったひとりで……世界を壊すことだってできる……」

スザクがハッと息を呑んで、口元に手を当て、沈黙した。
タオルで涙を拭い、ゆっくりと横になる。
緊張の糸が切れて気を失いそうだ。
スザクの顔色も悪い。
思い出したくないことを話したからだ。

「スザク、話してくれてありがとう。
この事は絶対誰にも話さない」
「……うん」
「ナナリー様の“行政特区日本”は……参加する人は少ないかもしれない、誰もいないかもしれない……。
それでもあたしは手伝いたい」

言い終わった瞬間、全ての感覚が遠ざかった。
意識が深いところに落ちていく。
限界だった。あたしはものの数秒で眠りについた。

 


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