0.「過去か、未来か、追い求めるのは」


目が覚めて、頭の中が空っぽなことにすぐ気づいた。
誰かに名を呼ばれても、それが自分の名前かも分からなかった。 

頭も視界もぼんやりして身体も動かしづらくて、表情筋はぴくりともしない。
糸が張り巡らされて縛られてるみたいだ。
自分の全てを自由に動かせない。
歩けるけど、自分の意思に反して勝手に動いてしまう。
思い通りにならないロボットを操作しているみたいな感覚だった。

白い服を着た男女が何人も来て話しかけられたけど、その内容はこぼれ落ちて頭に残らなかった。
大きな手が自分の手を握り、どこかに連れて行く。巨大な男の人と対面した。

すっごい髪形だなぁ。
と、それだけ思った。

射抜くような瞳は赤く輝き、何かの紋様が浮かび上がって見えた。
初めてなのに初めてじゃない感じがした。
すごくきれいな瞳の色を、目に焼き付けようとジッと見る。
何かを言われたけど、それも頭に残ってくれなかった。

全てがぼんやりして、曖昧で、頭が全然働いていないように感じる。
白い服の男女が何人か話しかけに来てくれたけど、記憶に留まることなくこぼれ落ちていく。 
夢の中にずっといるような気がして、死んでないけど生きているとも言えない日々が続いた。 

いつの日かオルゴールの曲が聞こえてくるようになった。
手のひらの、小さな丸いペンダントから。
視界はぼんやりしているけど、ペンダントの石飾りはよく見えた。
この形は分かる。桜だ。
石はきれいな色をしていた。

握ると心の中で、強い気持ちが浮かび上がってくる。
『これだけは持って行かないで』────そんな自分の叫びが内側から聞こえてくる。
あたしは、さいごに誰かを思っていた。
思い出そうとしても思い出せなかったけど。

ペンダントは誰かが首にかけてくれた。
懐かしい気持ちになる。
こんなふうにずっと身につけていたような気がする。
その後から、話しかけてくれる人の声や言葉がちゃんと理解できるようになった。
こぼれ落ちることなく記憶が蓄積されていく。

誰かが手を握ってくれた。

包み込むような大きな手。
重ねてくれる温かい手。
ひんやりと冷たいすべすべの手。
手袋をしている人もいた。

たまに頬や唇を撫でる手もあった。
ベタベタと、さわさわと。
気持ち悪い。内側がグツグツする。
触らないで、と鋭く思った。


 ─────


「それは本当ですか……?」
「はい。脳の一部が確認できません。
記憶は蓄積されず、消失していくばかりでしょう。
生まれついてのものだとは思いますが……初めて見ました。
これでは日常生活もままならない」
「そんなはずは……。
……だって彼女は、普通に生徒会で……」
「知っているのですか? この方の以前を」
「私と……同じ……」
「いいえ。アールストレイム卿より重篤です」


 ─────


「11月18日、天気は晴れ。
スザクの帰還は、11時の予定」

少しひんやりした手は女の子の声。アールストレイム卿と呼ばれていた。
彼女はいつも、今日が何日かを教えてくれる。


 ─────


「今日は研究機関に提出する分があるので、いつもより多く採血します」

事務的な男の人の声。
いつも診察してくれるお医者さんだ。

 ─────


「わたしに妹はいないからなぁ。
こうやって毎回髪型を変えてやるのも、なんだか楽しくなってきたよ」

温かい手の主は女の人だ。
いつも優しい手付きで髪をとかしてくれる。 


 ─────


「これくらいじゃあ覚醒はしないか」
「……趣味の悪いことをしているな、ブラッドリー卿。離れたほうがいい。
眠ってる女性にみだりに触れるな」
「ククク。眠ってる、ねぇ。
ヴァインベルグ卿は眠ってるとお思いかぁ」
「それ以上は触るな。不愉快極まりないぞ」
「そこまでお怒りとは。
ほら、離れてやったぞ。そう恐ろしい顔をするなよ。
これはただの実験だ。人形姫はこうやって触れてやると嫌な顔をするからな」

いつもベタベタベタベタ触ってくるヤツの声がやっと分かった。より一層気持ち悪くなる。
コツコツと足音が遠ざかり、ホッと息を吐きたくなった。
違う足音が近づいてくる。

「飲料水を少し頂くぞ」

この人は多分、いつも手袋をしている人だ。

「ちょっと冷たいが……許してくれ」

頬にひやりとしたものが付く。布の、ふわふわしている肌触りだ。
あの男に触られたところを全て、ゆっくりと丁寧に拭いていく。
この人は安心できる人だ。
ありがとう、を言いたい気持ちが浮かび上がる。
気持ちはあるのに声は少しも出せなかった。


 ─────


「排泄も食事も自分で出来て、決まった時間に決まったルートを歩き、あとはただ座ってるだけ。
そうプログラムされたロボットみたいだねぇ」
「生きてる人を機械扱いするな。
お前は相変わらずだな、アスプルンド」
「アハぁッ。キミは相変わらずボクが嫌いだねぇ」

先生は、たまにくる男の人を毛嫌いしてるみたいだ。
聞いててハラハラしてしまう。


 ─────


「ロイドさん、これは……心を閉ざしているんでしょうか……」
「あれだけのことをされたんだ。もしかしたら壊れちゃったかもしれないね」
「……あれを、本当に黒の騎士団がやったんでしょうか」
「さぁねぇ」

たまに、よく分からない会話も聞こえてくる。


 ─────


「たまには外の空気も吸わせてやりたいよな!
よし! ピクニックに行こう!
なぁスザク!! この前のライスボールを私にも作ってくれ」
「私も、ふたつ。甘くないやつ」
「いいよ。ジノとアーニャの分も用意するから」

たまに外にも連れてってくれた。
空気が違って、日差しは暖かくて、とても幸せな気持ちになる。


 ─────


「おはよう、空。
気をつけて行ってくる。必ず帰ってくるから」

包み込むように手を握ってくれる。
初めてあたしの名前を呼んでくれた人。
いつも話しかけてくれる人だ。


 ─────


「やっぱり……僕じゃダメか……」

たまに、笑顔じゃない声の日もあった。
その声を聞くと内側が苦しくなる。
話したい。
『おはよう』や『おやすみ』を言いたい。
そう思っても、どう声を出せばいいか分からなかった。


 ─────


「こんにちは、人形姫。
今日は私と面白いことをしよう」
「それは興味深いなブラッドリー卿。
その面白いことは私とやろうか」


 ─────


「お。散歩か。
わたしも隣を歩こう」


 ─────


「葉っぱ……ついてる」


 ─────


「診断の結果をもらったけど……。
あまり……改善はされてないみたいだ。
僕に何か出来る事があればいいんだけど……」


 ─────


「やぁおはよう、人形姫。
今日は私とゲームしよう、な」
「それは面白そうだなブラッドリー卿。
私も参加させてくれ」


 ─────


「プリンが特に好きみたい。
ツルンとして食べやすいから」
「サイコーに美味しいもんねぇ〜」


 ─────


「生きてはいるが、これは……。
頭の中どうなっているんだ……」


 ─────


話しかけてもらう日々が続き、聞こえる声が誰のものか判別できるようになった。
スザク、ヴァインベルグ卿とも呼ばれるジノさん、アールストレイム卿とも呼ばれるアーニャさん、ノネットさん、ロイドさんとセシルさん、アイングシャ先生、あとはブラッドリー卿。
あっという間に2ヶ月が過ぎた。


 ─────


足音だけで分かる。ブラッドリー卿と呼ばれるあの男だ。
すぐ目の前で足を止める。

「おはよう、というには早すぎる時間だな。
今日は邪魔が入らない。私とふたりきりだ」

絶望的なことを言われ、気が遠くなりそうだ。
久しぶりに触られた。
嫌だ、本当に。
すごく気持ち悪くて、本当にやめてほしかった。
内側がグツグツする。
グツグツ、グツグツ、マグマのように。

「ずっと気になっていたんだ。
お前の大事なものはなんだろう、と」

首のあたりも触ってくる。
ぞわりと鳥肌が立ち、嫌な気持ちがさらに増す。
ペンダントがわずかに揺れる。鎖が外された。
ずるずると引っ張られ、ずっと身につけていたものが唐突に無くなってしまう。
自分の内側が大きく震えた。

「大事なものはきっとこれだ。
お前だけは、命じゃない」

目の前でぶら下げて、顔を歪めてあざ笑う。

「壊したらどうなるだろうなぁ?」

目の奥が熱くなり、手が震えてきた。
全身に血が巡っていく。
頭の中で欠けていたものが埋まっていく。
自分を縛るものをぶちぶち千切るように、少しずつ自由を取り戻す。
あたしが、ちゃんとあたしになっていく。

こいつをぶん殴りたい。
あたしの心がそう思った。

「か……かえ、し、て……」
「やはりこれか」

手を動かしてペンダントを手中に隠す。
見下ろす瞳は楽しそうだ。

手首をグイと引っ張られ、椅子から引きずり降ろされる。
転倒して体を強く打ち付けた。
頭がぐらぐらしたけど、なんとか顔を上げる。
高いところから見下されている。
いつもより大きく見えた。

「這いつくばって懇願しろ。
上手におねだりできたら返してやるよ」

身体を動かせるようになったけど、ギシギシ軋んであちこち痛い。
手と腕を使い、ぎこちなく上半身を起こす。
それだけで息切れした。
睨みたいのに思うように動かない。
鈍く痛む頭は重くて顔を上げづらい。
上のほうで剣を抜く音が聞こえた。
間近で素早く振り下ろされ、鋭い切っ先を顎に突きつけられる。

「手伝ってやろうか?」

ニヤニヤした声。
また、内側がグツグツする。
今動かせるのは顔と右手だけだ。
喉も、今はうまく声を出せそうにない。

気持ち悪くてずっと嫌だった。ずっとムカついていた。
ずっと、ずっとずっとずっとずっと!!

突きつけられた切っ先をグッと握る。
鋭い痛みが走り、手に食い込んだ。
痛くて熱いけどそれよりも、今向けられてるこれがすごくムカついた。
自分に出せる全ての力を使い、グググと握りしめて睨みつければ、驚く顔がよく見えた。
けど、驚きの顔はすぐに満足そうな満面の笑みに変わる。

「……イイね。すごくイイ」

触られてないのにゾワッと寒気が走った。

「そこまでだ。ナイトオブテン」

地の底から響くような低い声に、ムカつく笑みが顔から消える。
誰が来たかは見えないけど安心して力が抜けた。剣から手を離す。

「お早い到着ですねぇ。
まさかあなたがここに来るとは」
「いたく執心していると聞いていたからな。
陛下が留意している娘だ。害を与えることは無いと思っていたが……。
……度を越した遊びは我が身を滅ぼすぞ」
「遊びではありませんよ。
確かめる為の行為です。
ここまで揺さぶらなければ彼女は覚醒しなかった」

剣についた血を振って落とし、鞘に戻す。
ペンダントはポイッと捨てることなく、床にそっと置いてくれた。
マントをバサッとした後、離れていく。
色はオレンジ。金色の紋章が刺繍されている。

「接触禁止ならいつでも受け入れますよ」

あたしの前からやっといなくなった。
緊張の糸がぷつんと切れ、忘れていた右手の痛みが激痛に変わる。
血が止まらなくてドクドクと溢れてきた。
真っ白になった頭が、止血!と叫ぶ。
止血できそうなものが無くて、とっさに左手を押し付けて圧迫する。
駆け寄ってくる足音に顔を上げられなかった。

「かしなさい」

ピシャリと言われ、慌てて右手を差し出した。
頭がくらくらする。
全ての血が右手から逃げていくように感じた。
助けに来てくれた人は白い布で右手を覆ってくれて、肘の内側をグッと押してくる。
白い服と白いマントが血で汚れて、後悔と申し訳なさが押し寄せる。

「す、すみま……せん……!!」
「いい。しばらくこのままで耐えろ。
じきに誰かが来るはずだ」

初めて聞く声。初対面だ。視線を上げて確認する。
左目を塞いでいる隻眼の男の人。
肩幅広くてがっしりしてて、威圧感はあるけど怖くなくて、灰色の瞳がジッとあたしを見る。
全身が寒い。目の前が薄暗くなっていく。
気を抜いたら意識が飛びそうだ。
これ以上は迷惑をかけたくない。踏ん張ってなんとか耐える。
深く息を吸い、ゆっくりと吐いていく。
しっかりと深呼吸を繰り返す。

「ありがとうございます。
助けて、くださって……」
「己の意思で、騎士の剣先を握ったのか」
「はい。すごく、嫌、だった……から……」

柔らかく息を吐いて口角を上げる。

「これはなかなか胆力がある」
「ヴァルトシュタイン卿!!」

スザクの張り上げる声。
「ここで何があったんですか……!」とジノさんの声も聞こえた。

「自我を取り戻した。
自傷で手を深く切っている。
医師と治療の準備を!」

バタバタと、ひとり分の足音が去っていく。

「枢木卿はこちらへ。
貴公が誰よりも彼女の身を案じていただろう」

ひとり分の足音が近づいてくる。
目を開けてるのに目の前が真っ暗で何も見えない。

「空……っ」

スザクの声だ。
どこにいるか分かる。

「おはよう」

やっと言えた。
ちゃんと笑えただろうか。
気が抜けて座ることもできなくなって、ぐらりと倒れて、そこから先は────


────ふ、と目が覚める。
白い天井。匂いはしない。
聞こえるのは空調の音だけだ。
先生がいる部屋だ。毎回、手を引かれてここに来ていた。
白い布でぐるぐる巻きにされた右手は痛くない。
と、いうよりも麻痺してるみたいだ。

どれくらい眠っていたんだろう。
顔をコテンと横に倒せば、デスクに座る白衣の男の人と視線がぶつかった。

「おはようございます」
 
席を立ってこちらに来てくれる。
声で分かった。アイングシャ先生。
藍色の髪を切り揃えた短髪の男の人。

「今は夜の7時です。
枢木卿は10分前に夕食の会合に出られました」
「はい……」
「8針縫いました」
「……はち」
「抜糸は2週間後を予定しています。
傷は残ると思っていてください。
詳細はまとめて枢木卿にお渡ししています」

突きつけられた現実に、頭を打ち付けたくなる申し訳なさが襲ってくる。

「……すみません。
考えもなしに、握ってしまって……」
「我々はただ治療するだけです。
快癒するにはこれからが重要ですよ。
左手も使えるように練習を重ねましょう」

笑みはないけど眼差しは真剣だ。
頷いてから、ゆっくりと身体を起こす。

「食べたいもの、飲みたいものはありますか?」
「……いいえ。今は、まだ」

先生は背もたれのない椅子を持ってきて、ベッドの横に置いてから腰掛けた。

「やっと応対できるようになりましたね。
今までのあなたは『はい』も『いいえ』も言えなかった。
いくつか質問してもいいですか?」
「はい。全部答えます」
「ありがとうございます。
それではまず、あなたの名前を教えてください」

難問を突きつけられたような気分になって、答えようと開いた口が閉じていく。
嫌な汗がじわっと出てきた。
先生の目をまっすぐ見れない。

「わ」

ちゃんと話したいのに答えに詰まった。

「……わ、分かりません。
空、っていう名前だとは、思うんですけど……」

先生は表情を変えない。ずっと事務的だ。
感情をあえて隠しているのかもしれない。

「……やはり、そうですか。
記憶の消失が他にもあるか確認させてください。
このまま質問を続けさせてもらいます」

先生は手帳を持ち、質問しながらペンを走らせる。
『ここ』に来る前の自分の事をたくさん聞かれたけど全部分からない。
誰でも答えられるプロフィールを、あたしは全て答えられなかった。

「回答をありがとうございます。
何か質問はありますか?」
「……先生、あたしのこれは……。
時間が経てば思い出せるんですか……?」
「今は答えられません。
脳内をもっと鮮明に撮る必要があります。
今は、水分補給を優先しましょう。
甘いほうか苦いほう、どちらがお好みですか?」

声音は変わらず淡々としている。
甘いほうをお願いすれば、先生は温かいお茶を出してくれた。
ふぅふぅ冷ましながらぼんやり考える。

脳内を撮らなくても分かった。
あたしのこれは、きっと思い出せないやつだ。

飲めば、ほんのり甘くて美味しかった。
目から涙がにじみ出てくる。
先生は無言でティッシュの箱を差し出し、デスクに戻っていった。
時計の針が8時を指した瞬間、先生は耳にインカムを装着してどこかに連絡を取る。

「目覚めました。
全ての記憶が消失しているとお伝えください」

その連絡から数分後、ヴァルトシュタイン卿とスザクがやって来た。
ふたりともマントはつけていない。

「彼女の右手は……」
「薬が効いているので痛みはありません。
しばらくは左手だけの生活です」
「あたし頑張るね」

グッと握った左手をスザクに向ける。
泣き笑いの顔で歩み寄り、握りこぶしを手で覆ってくれる。
この手があたしをたくさん元気づけてくれた。

「いつも、手を握ってくれてありがとう」
「いつも?」

食いつくように先生が反応する。

「は、はい。
返事とかは出来なかったけど、声はずっと聞こえていました……」
「ずっと? いつから?
日にちを。アールストレイム卿が日付を伝えていたはずです」

畳み掛けるような問いかけに圧倒されながらも、話しかけてくれた記憶をさかのぼる。

「……11月の、じゅ、18日……。
スザクが……聞いてた時間よりも早く、9時過ぎに帰ってきてくれて……」
「感謝を。
ヴァルトシュタイン卿、全員をここに呼びます」
「ああ」

そこから先は慌ただしかった。
白衣を着た14人が続けざまに入ってきて、大きな機械がある部屋に連れて行かれたり、頭に何か付けられたり、目まぐるしかった。
時計の針が10時を指した頃にやっと解放される。
通路にはジノさんとアーニャさんがいた。
記録を一枚、パシャリと撮られる。
「皇帝陛下にご報告申し上げるぞ」と、ヴァルトシュタイン卿はスザクと先生を連れて行ってしまった。

「……私は詳細を聞く。ジノは護衛」
「ああ。もちろんだとも」

マントは二人ともつけていない。
ジノさんは数歩進み、隣室を指差した。

「自我を取り戻したことで、あの部屋がキミの自室として与えられた。
内側からロックできる。
……まぁ、先生とスザクが鍵を持っているから完全なプライベートの空間ではないのだが。
疲れただろう。ほら、行こう」

病院の個室みたいな内装だ。トイレもある。
カーテンで隠れているけど、きっと窓もある。
ベッドのそばには横長のソファもあって、大人がゴロンと横になって寝れるような大きさだった。

「お腹は空いたか?
キミはいつも、夜の7時に食事してるんだ」
「まだ大丈夫です。お腹、空いてなくて……」
「食べたくなったら教えてくれ。
温かいものを持ってきてもらうから。
ここはキミの部屋なんだから座って座って」

促されてソファに座る。
ジノさんは目の前でしゃがみ、目線がグッと低くなった。

「ヴァルトシュタイン卿の証言とブラッドリー卿の自供で、陛下は接触禁止を言い渡さなかった」
「じゃあ……」
「ああ。ヤツはまた来るだろう。でも、二度とキミには近寄らせない。
ヴァルトシュタイン卿が常に目を光らせているし、エニアグラム卿は怒っている。
私もアーニャも間に入るし、スザクはいつでも決闘を申し込む心積もりだ」

不安になったけど、それも一瞬だけだ。
助けてくれる人がたくさんいてホッとした。

「ジノさん、ありがとうございます。
今まで、ずっと……ブラッドリー卿と……あたしの、ふたりだけに……ならないように声をかけてくださって……」
「当然だ。
キミをスザクは大切に思っている。
だから、私もキミを大切にしたいんだ」
「ずっとお礼を言いたかった。
顔を拭いてくれたあの日、すごく……嬉しかったんです。
本当に、ありがとうございます」

青い瞳をまんまるにして、驚きで何も言えない様子だった。
視線がわずかに泳ぎ、照れ笑いを浮かべた。

「そ、そうか……。
……眠っているわけじゃ、なかったんだな」
「声だけはずっと聞こえていました。
ピクニックも楽しかったです。
ぽかぽか暖かくて、おにぎりは美味しくて」
「そうか。キミはあの日、楽しいと思ってくれたのか……。
……それは本当に、よかった」

嬉しそうに、くしゃりと笑う。
見てて心がホッとする、明るくて太陽みたいな笑顔だ。
だんだんお腹が空いてきた。
いつも食べてるものを運んでもらい、簡易テーブルに乗せ、黙々と食べる。
しゃがんだままのジノさんはそれを微笑ましいそうに眺めていた。

「食事している時の顔つきが違うな。前と全然違う」

見つめられるまま食べるのは少し恥ずかしかったけど、嬉しそうな笑みを浮かべていたから、まぁいいかと思った。
完食して、水を飲んでいたらコンコン、と扉が叩かれる。
入ってきたのはスザクだった。

「スザクぅ〜!!」

嬉しそうな顔で立ち上がり、出迎えた。

「ありがとう、ジノ。
彼女のそばにいてくれて」
「アーニャも来てくれたのか!」

スザクに隠れて見えなかったけど、ぴょこっと顔を出して写真を一枚撮ってくる。

「記録」

両手に携帯を持ちながら、彼女はあたしの隣に腰掛ける。
ジノさんがいたところにスザクがしゃがみ、ジノさんは扉を背に腕を組んだ。

「撮影した脳の画像を借りてきたよ。
これを見ながら聞いてほしい」

重ねた食器を横にずらしてスペースを作ってから、スザクは白黒の断面図の写真をテーブルに乗せた。

「これはキミがここに来た当初、撮影したものだ」

黒い手袋で先生みたいに指し示していく。

「ここの……真っ黒なこの部分、本来ならここが記憶するところなんだ。
行った場所や出会った人、自分に関する事、思い出の全てが蓄積される。
でもキミの頭にはそれが……生まれた時から備わっていなかった。
今日、いきなり検査されて大いに戸惑ったと思う。
でもそれは先生達も同じだ。
一日にあった出来事をすぐに忘れる頭をしているのに、2ヶ月も前に聞いた話をなぜか覚えていたんだから」

スザクはもう1枚、脳画像を見せてきた。

「これは今日、さっき撮ったやつだ」

前のめりに見る。
これが間違い探しなら、一発で答えられるぐらい、画像には明確な違いがあった。

「……絶対に起こらない……変貌。
同じ人間の脳とは思えない……」

左手で頭に触れる。
自分の脳みそなのにじわじわと怖くなってきた。
あたしの手にアーニャさんが手を重ねる。
空いてる右側の頭をスザクも撫でてくれた。

「ここから本題だ。
これからのキミは全てを覚えていられる。
何もかも忘れたりしない。
以前の記憶は思い出せないだろうけど」
「やっぱりそうか……」

心の中にある、思い出したい気持ちがクシャッと潰れる。
今までの記憶をあたしの脳は蓄積できなかった。思い出すも何もなかったんだ。
あたしは新しい人生を生きるしかない。
答えられなかったプロフィールを、今のあたしがこれから埋めていくしかないんだ。

「それもどうひっくり返るか分からないだろう。
起こり得ない事が彼女の脳内で起こったんだから」

真剣な顔でジノさんが言う。
嬉しいけど申し訳なくなる。
そんな気休めを言わせてしまったから。

「……私も、思い出せない記憶がある」
「えっ」
「今でも記憶がずれるの。
データとしての記録が違っている」
「アーニャ、まさか君は……!!」

ハッとスザクは口を閉ざす。

「記録、見せてもらったらどうだ?」

にんまり笑うジノさんの言葉に、アーニャさんは携帯の画像を見せてくれた。
たくさん撮ってる。
どの画像もあたしは無表情だ。半分だけ開いた目は虚ろで光が無い。
でも、そばには必ず誰かがいる。

「ありがとうございます、アーニャさん。
あたしはずっとひとりじゃなかったんですね」
「アーニャ」
「は、はい」
「アーニャでいい」
「私もジノと呼んでくれ」
「はい!」

就寝の時間になり、スザクが残ることになった。
二人を見送った後、寝る準備を済ませ、ベッドに潜り込む。
電気を消して、真っ暗にならないようにスザクはカーテンを少しだけ開けた。
月明かりが差し込み、スザクを照らす。

「スザクはあたしの家族?」
「え」
「ジノが言ってた。
スザクはあたしを大切に思っているって。
“空”って名前は、以前のあたしを知らないと呼べないから」

カーテンを離れ、スザクはソファに行く。
月明かりから遠ざかり、暗い場所に座った。

「……ごめん。僕はキミの顔と名前しか知らない」
「顔と名前だけ?」
「ああ。
僕に生きる希望をくれた方の友人、それがキミだ。
密かに交流されていて、教えてもらったのは顔と名前のふたつだけ。
僕は詳しく知らないけど、その方がキミを大切に思ってるのはよく分かってた」
「あたしの友人……。
今はどこにいるの?」
「去年、亡くなってしまった。
だからその方の分まで、キミを大切にしようと思ったんだ」

大切な人をスザクも失ってしまったんだ。
記憶を失って頭は空っぽなのに、心にも穴が空いてしまったような気がする。
何か言いたい。でも返事ができない。 
彼の座る場所がさらに暗くなったように思えた。
いつも手を握ってくれて、いつも話しかけてくれた人。
もらってばかりだ。次はあたしが返したい。

「……スザク」

身体を起こしてベッドを降りる。
近づいたら、あたしに気づいて顔を上げた。
そばでしゃがみ、スザクの大きな右手に自分の手を重ねる。
本当はスザクみたいに手を握りたかったけど、今はこれが精一杯だ。

「手が冷たいね」

泣くのを堪える声でスザクは微笑む。
笑ってほしくないと思った瞬間、目に涙が浮かんだ。

「スザクの話を聞かせてほしい。
知りたいの。スザクに生きる希望をくれたのがどんな方か」 

あたしの手の上に、スザクは左手をポンと重ねてきた。
サンドイッチみたいだ。スザクの手に挟まれてる。

「ありがとう、空。
いつか必ず話すから」

スザクの声は穏やかだ。
泣きそうじゃない。心の底から溢れたような笑みだった。

次の日から新しい生活が始まり、ここで過ごす上の仮称として“ソラ”を名乗ることになった。  
自分の全てを自由に動かせるのが嬉しくて、思うままに動けるのが幸せだった。
話しかけてもらう一方だった今までと違い、自分から声をかけることができて楽しかった。
 
スザクに猫を紹介してもらった。
名前はアーサー。スザクの部屋に住み着いていて、自由気ままにお散歩してる。
アーサーに、撫でてもいい?と聞いたら撫でさせてくれて、幸せな気持ちで顔がゆるゆる緩んでしまった。
ノネットさんは本当の姉上みたいに接してくれて、他の人も反発しないで受け入れてくれた。
ブラッドリー卿と遭遇することはあったけど、安心できる人がいつも近くにいてくれた。

「おはようございます、ブラッドリー卿」

背筋を伸ばして笑顔で挨拶すると、ニヤリとした笑みが返ってくる。

「おはよう。もう人形姫とは呼べないな。
人恋しくなったらいつでも相手をしてやるよ」

近寄っては来ないけど、ザワッと鳥肌が立つことをたまに言われた。
右手の治療と脳の検査は並行して進められ、サンプルが欲しいと言う研究者が訪問する日もよくあった。
謝礼だと渡された封筒は恐れ多くて、そのままスザクに全部手渡した。


 ─────


抜糸しても安心はできない。
先生に診てもらいながら日々を過ごした。
たまに、ジノとアーニャと庭園にピクニックに出かけて、おにぎりを一緒に食べたりもした。
ゴロンと横になれば、アーサーがお腹に乗ってきて、ふわふわして温かくて幸せな気持ちになった。


 ─────


ヴァルトシュタイン卿と言葉を交わすことは無かったけど、いつも視線を向けてくれているように感じた。
一度だけ振り返った事がある。
普段はしない動きを、なぜかその時のあたしはしてしまった。
ヴァルトシュタイン卿が柱に身を隠しながらこちらを見ていて、閉じている瞳が赤く輝いていた。
輝きがフッと消え、ヴァルトシュタイン卿は去っていった。
見間違いかと思える一瞬の出来事を、あたしはスザクに話さなかった。
言ってはいけないと感じたから。


 ─────


新しい生活に慣れ始めると、知りたい事も増えていく。
そんな時はスザクに聞く。
不思議と、唯一の身内みたいな感覚がして、スザクにしか聞けなかった。

「あたしがここに来た経緯をスザクは知ってる?」
「ここに来た経緯……」

視線を外し、スザクは自分の記憶をさかのぼるように沈黙する。
思い出しながら話す。

「エリア11の……ブラックリベリオンの時、騒乱の中、キミは保護されたらしい。
最も安全なところで治療するのがいいと……そうお考えになった皇帝陛下のご命令で……」

悩みながら言葉をひねり出すように話してくれた。

「……僕が言えるのはそれだけかな」
「治療。治療って言ったら、あたしの脳だよね。
今もここに住まわせてもらってるのは……」
「皇帝陛下は何かをお求めになっている」

何を求めてるんだろう。記憶?
ラウンズの方々の血縁者でもない、皇族でもない、ただの一般市民の失った記憶に価値があるとは思えないけど。

「皇帝陛下はあたしに思い出してほしいの?」
「思い出さなくてもいいみたいだ。そう明言されていたよ。
でも、何かを求めているのは確かなんだ……。
……他に聞きたいことはある?」

答えてもらえるなら質問したほうがいい。

「他に知りたいのは……ブラックリベリオンであたしを保護した人かな」

その人の報告で、皇帝陛下はここで治療することを決めた。
その報告内容が気になった。

「ごめん。僕は戦場にいたから何も知らなくて……」
「医療機関がマヒするような大きな戦いだったんだね」
「ああ。そうだ。
全てをめちゃくちゃにしたんだ」

いつもより低い声に驚いてビクッとする。
ハッとしたスザクは慌ててこちらを見た。

「ご、ごめん。
……あの日は本当に色々あったから」
「ありがとう。話してくれて……」


 ─────


季節は移ろい、庭園の景色が変わっていく。
スザクは任務じゃない日はいつもそばにいてくれた。
先生みたいに世界や日本のことを教えてくれたり、一緒にご飯を食べたり、星を見る夜はスザクの大切な人の話も教えてくれた。
家族みたいに優しくしてくれた。
あたしは本当にもらってばかりだ。
返しきれないぐらい、スザクにたくさんもらってる。
いつかちゃんと返したいと思った。


 ─────


右手の治療が終わり、アーニャから黒い手袋をもらった。
手のひらのひどい傷跡を隠すのにちょうどよくて、彼女のプレゼントが宝物になった。
その頃からたまに、自分でもよく分からない涙が流れるようになった。
悲しくないのに、苦しくないのに、目からぼろぼろ溢れてしまう。
「これは元気が出るおまじないだよ」と言って抱きしめてくれたのはスザクだった。
場所は廊下。ジノとアーニャに目撃された。
スザクが説明してくれて、ジノが「それなら私も元気が出るおまじないをしようかな」と後ろからギュッとしてくれた。
次からアーニャも抱きしめてくれるようになって、急に涙が溢れても冷静に対処できた。


 ─────


ある日の夜、場所は庭園。
そばでゴロゴロするアーサーを撫でながら、道着姿でトレーニングに励むスザクをぼんやり眺める。
間もなく訪れる自分の未来を思った。
皇帝陛下は何かを求めている。
だからあたしは、ナイトオブラウンズが全員いる安全圏にずっと住まわせてもらっている。
でも、いつかは言われそうだ。ここから出ていきなさい、って。
日本に帰り、思い出せない土地で暮らさなきゃいけない。
スザクと、ジノとアーニャと、ノネットさんや先生とも、さよならしなきゃいけない。
想像するだけで寂しくなってくる。

「何か悩みごと?」
「あ……」

トレーニングが終わったのか、中断させてしまったのか、スザクが目の前に立っていた。

「……ちょっとね。
ちゃんと、考えなきゃいけないって」
「何を考えていたんだい?」

隣に座ってくれる。
スザクはすごい。そばにいてくれるだけで安心するんだから。

「いつかはここを出なきゃいけない、って思って」
「どうして?」

驚くスザクに目が丸くなる。
唐突、ではないはずだ。
ここに来てからけっこう経ってるんだから。
右手も治ってる。
今みたいな生活はずっと続けられない。

「ここにいる方は全員に役割があるでしょう?
あたしにはそれがないから。
ここから出ていきなさいって、いつかは言われそうだなって思って……」

スザクは黙り込む。
深刻な顔に、あたしは少しだけ焦った。

「えっ、もしかして実際にそんな話になってる!?」
「いや違う。そんな話にはなってないよ……」

否定するけど、スザクは難しい顔つきのままだ。

「空は、ここを出ていきたいの?」

難しい顔で確かめるように聞いてくる。
軽い気持ちで返答しちゃいけないと直感で思った。

「出ていきたい……とは、思ってないよ。
スザクと、ジノやアーニャと、もう会えなくなるのは寂しいから。
できれば……そばにいたいって思ってる」

声に出せば、急に恥ずかしくなってきた。
視線が下がってしまう。
うつむく頭を、大きな手が撫でてくれた。

「そばにいたいなら、いていいんだ」

囁く声は優しい。
優しすぎて、いつものスザクじゃないみたいだ。

「空がここに居たいと望むならずっと居てもいい。
皇帝陛下が求めているのは、自分で生き方を決める空の姿なんだ。
ここに居たいと願うならきっとお許しになる」
「そうなの……?」
「そうだよ」

甘い言葉だ。不安がどろどろに溶けていく。
良かった、と。心の底から思った。

「それじゃあ……あたしはずっとここに居てもいいんだ……。
スザクのそばに……」
「ああ。僕も、空のそばにいたいと思ってる」

いつものスザクじゃないと頭では分かっているのに、あたしはそれを無視した。
だから見えなかった。
この時、スザクがどんな顔をしていたのかを。

翌日、診察の時間。
先生から「今開発中の、心拍計のモニターにならないかい?」と誘われた。
胸の下につけるタイプで、身体情報・精神状態を数値化して病院や医療機関に常に送信する。
自宅療養の患者さんが使うのを目的に開発されていて、何かあったらすぐに駆けつけられるよう、位置情報も常に送信しているそうだ。

「モニターの方は他にもいるけどまだ足りない。データがたくさん欲しくてね。
もちろん、報酬は毎月お渡しさせてもらうよ」
「心拍計のモニター……」
「データを得られたら我々は嬉しい。
多くの患者さんの救いになるからね。
モニターになってもいいかな、と思ったらまた声をかけてくれ」
「やります!!」
「……は、早いね」

自分に出来ること、役割が欲しかった。
だからこの話にはすぐ飛びついた。
用意していたのか、先生は黒い心拍計を出してきた。
カーテンを引いた場所に行き、服を脱ぎ、胸の下に装着する。
昨日スザクに打ち明けた不安が、今日すぐに解消された。
タイミングが良すぎると頭では分かっていたけど、あたしはそれを無視した。
ここに居られる理由ができた、と。
あたしはそう思って安心した。


 ─────


数日後、広い大浴場でアーニャと二人だけでお風呂に入る。
髪を洗っていると「その心拍計、お風呂でも付けてるのね」と湯船にいるアーニャに話しかけられた。

「うん。完全防水だから入浴の時も外さなくていいみたい」

自分の一部みたいにフィットしている。
どんな仕組みか分からないけど、脳みその変化も数値化されているらしい。
気分転換に外してもいいと言われていたけど、ずっと付けていようと思っている。
抵抗感は少しも無かった。

「……私もあなたとずっと一緒にいたいと思っているわ。
だから安心してるの。
あなたがここに居続けることを決めてくれて」

笑みを浮かべた声はいつもより感情豊かだった。いつものアーニャと違う。
シャワーを浴びながら横目でソッと彼女に視線を向ければ、湯船からこちらを見る瞳がいつもと違った。
ヴァルトシュタイン卿と同じ、赤い輝き。
ジッと見据えるアーニャの眼差しに、反射的に視線を外す。
シャワーを頭から被って見えないフリをした。

「いい子ね。
皇帝陛下があなたに関する報告を欠かさず聞く理由が少し分かったわ」

声はアーニャなのに、アーニャじゃない誰かが喋ってるみたいだった。
シャワーの水音しか聞こえなくなる。
髪を洗い終わってもう一度横目に見たら、彼女は湯船でキョトンとしていた。

ここに居続けると知れ渡ったのか、話す前からジノは嬉しそうだった。
ぎゅーーーーーーっと抱きしめてくれて、兄上がいたらこんな感じかなぁと思ってしまう。
その日は果物をたくさん使ったケーキを食べさせてもらい、今日が誕生日みたいな気分になる。
ケーキはすごく美味しかった。
美味しいんだけど、二口目をすぐには食べられなかった。
なぜか分からない。これよりもっともっと美味しいケーキを食べたことがあるような気がした。


 ─────

  
スザクもアーニャもジノも任務でいない、ある日のこと。
お茶を飲もうと誘ってもらい、ノネットさんの部屋にお邪魔させてもらった。
ペンダントを見せてほしいとお願いされ、首に下げていた鎖を外し、ノネットさんに渡す。
パカッと開け、オルゴールの音色に耳を傾けながら、指先でペンダントの向きを変えていく。
扱いがすごく丁寧だった。

「この曲は初めて聞く。作曲家がプライベートで作ったものかな?
この形の花はエリア11にしか咲かない。素晴らしい意匠だ。
ご両親から譲り受けた装飾品にしてはきれいすぎる。
この輝きなら、2年以内に作られたものだろう」
「すごいですね。
見ただけなのに……」

ノネットさんは紫のハンカチにペンダントを優しく乗せ、ハンカチごと渡してきた。

「いいものを見せてくれてありがとう。
このペンダントは贈り物だ。
おそらく、以前のキミはこの花が好きだった。
大切に思ってくれる誰かと共にいたのだろうな」
「友人からのプレゼントですか?」
「わたしは婚約者だと考えた。
一生を共に生きたいと思わなければ、これほどの品は贈れない」

紅茶だけじゃなくて、砂糖漬けにした花びらもごちそうになった。
紫色のそれは春に咲く花で、甘くていい匂いがして美味しかった。


 ─────


穏やかな日々が過ぎていく中、疑問が少しずつ膨らみ、強くなっていく。
このペンダントをくれた人は誰だろう、と。
部屋の窓辺に置いたスツールに座り、窓から差し込む月明かりにペンダントをかざす。
忘れてしまっても心は覚えているみたいだ。
このペンダントはあたしにとって、失いたくない大切なもの。
不意に目から涙が溢れた。
蛇口をひねって出る水みたいに、自分の意思を無視してボロボロ出る。
このよく分からない現象を心拍計は異常として送信しない。
出てくる水分で服を汚さないよう、ハンカチで目を覆うしかできなかった。
コレは何だろう。意味が分からない。
意味不明なのに、だんだんと泣きたくなってきた。
右手でハンカチを目に押し当てる。
左手でペンダントを握れば、ホッとした。
どうして安心するのか分からない。

「ごめんなさい!
ごめんなさい……!!」

ここに居たいと望んだことに、ものすごい罪悪感を抱いてしまった。

翌日、早朝。
号泣した目は腫れてしまった。
冷やすよりも、それよりも。
部屋を出てあちこち廊下を歩き回る。
守衛の軍人じゃない。ヴァルトシュタイン卿に会いたかった。
息を切らしてそれでも走る。
広すぎる敷地の、まだ行ったこともない通路を進んでやっと、捜していた白いマントを見つけることができた。
足を止めた後、背後からバタバタと走る音が近づいてくる。
振り返って驚いた。先生だった。

「こんな時間に部屋を出て、一体何があったんだ……!」

手には端末。
あ、そうか。位置情報を見て追いかけてきたのか。

「ごめんなさい先生!
あたし……ヴァルトシュタイン卿にお会いしたくて……!!」
「私に用か」

低い声が背後から聞こえて息を呑む。
離れていたのに、いつの間に至近距離にヴァルトシュタイン卿が立っていた。

「皇帝陛下にお目通りを……」
「ほう」
「あたしの今の気持ちを、皇帝陛下にお伝えしたい。
謁見を……求めます」

ヴァルトシュタイン卿は薄く笑う。
謁見を求めてもすぐには叶わないだろう。
半月後か、1ヶ月先か、それよりもっと後。
皇帝陛下は会いたいと思って簡単に会えるようなお方じゃない。

「謁見を許可しよう。
来なさい」
「えっ今ですか? いいんですか!?」
「陛下が求めているのは君の意向だ。
ロイド・アイングシャ。枢木卿を呼べ」
「イエス、マイロード」

自分で謁見を望んだくせに、急展開に頭が追いつかない。目の前がぐるぐるしそうだ。
白いマントを追いかけ、奥へ奥へと進んでいく。
どこを歩いたか覚えられないぐらい、頭も心もいっぱいいっぱいになった。

行き着いた先、中に入るのを促される。
心の準備ができないまま入室した。
スザクにいつか見せてもらった皇帝陛下の肖像画を思い出す。
実際に見たお姿は鮮明で、広い室内の全てが霞んでしまう。
迫力と威圧感が凄まじい。

「ようやく来たか、忘却の娘」

腹に響く声をしている。エコーがかかってるみたいに聞こえた。
恐れ多くて顔を上げられない。
頭に岩石を乗せられてるみたいだ。

「わしの目を見よ」
「は、はい!!」

条件反射だ。言われるままにバッと顔を上げる。
瞳は、今は冷めた紫色をしている。
ガチガチに緊張して呼吸が浅くなる。
動けない。目をそらせない。
ペンダントを、服の上からギュッと握っていた。

「己が生きる道を、決めたのだろう。
過去か、未来か、追い求めるのは……どちらだ?」

心拍計が壊れそうだ。今頃、先生のところで警報が鳴ってるだろう。
頭も心もいっぱいいっぱいで今にも爆発しそうだ。

「あ、あたしには……追い求める過去が、ぜんぶ消えました。
頭の中からぜんぶ消えて、思い出しても……思い出せなくて……。
だから……だから、新しい人生を、生きようって、思って……。
ほん、本日謁見を求めたのは……エリア11に行く許可を、皇帝陛下に、いただきたいと思って……。
半日だけでいいんです」

それ以上は望まない。
あたしにペンダントを贈ってくれた人がいる日本で、桜が咲いていた場所で謝りたかった。

「あたしがかつて住んでいたところに……トウキョウ租界に、行かせてください……」
「断る」

息ができなくなる。
鋭い言葉に、剣で切られたみたいに胸が痛む。

「未来を進む者は、わずかでも過去には戻れぬものよ。
わしの元で生きることを決めたのなら、己の中にあるしがらみは全て捨て去るがよい」
「それなら……過去を追い求めたら……?」
「帰還は許さぬ。
エリア11に行きたいのなら、お前が心の拠り所にしている者を全て捨てよ」

行きたいと思うならここには二度と帰れない。
少しだけ行って戻ってくる、そんな都合のいいことは許されないんだ。

「皇帝陛下……。
すみません、30秒だけ……時間をください……」
「よい」

震える手でペンダントを表に出す。
そっと開けば、オルゴールの音色が聞こえてくる。
ぐちゃぐちゃでいっぱいいっぱいだった頭と心が冷静さを取り戻す。
意識して深呼吸もできた。
大丈夫だ。あたしは大丈夫。
閉じたペンダントを握り、改めて皇帝陛下を見る。
威圧感は少しも感じない。
紫の瞳を今はまっすぐ見つめられた。

「あたしは絶対に忘れちゃいけないことを忘れました。
だからエリア11に捜しに行きます。
全て忘れて思い出せなくても、あたしにこれを贈ってくれた方は、あたしを覚えているはずだから」
「追い求めるのは、過去でも未来でもなく」
「人です。
会いに行きたいと、あたしの心がそう思いました」

皇帝陛下は、ふ、と息を吐いて……

「フハハハッハッハッハッハッハッハッハッ!!」

いきなり笑いだした。

「フハッハッハッハッハッハッハ!!
ハーッハッハッハッハッハッハッハーッ!!」
 
大爆笑もエコーがかかってるみたいに聞こえる。
なんであたしはこんなに笑われているんだろう。

「よい! よいぞ!!
ならばエリア11に渡れ!!
“ラックライト”を名乗るがよい!!」

マントをバッサー!!として、皇帝陛下は背を向けた。

「あ!! ありがとうございます!!」

ガバァッと頭を下げる。
けど、この後どうしたらいいか分からない。
しばらくしてから、扉が静かに開いてヴァルトシュタイン卿が入ってきて背後に立たれた。
マントをバサッとされて視界を隠され、強引に後ずさりさせられ、強制的に退室させられた。
廊下に出て、扉が無音で閉まった後、やっとブハッと呼吸できた。

「あ……ありがとうございますヴァルトシュタイン卿……」
「いい。
陛下のお声がよく聞こえた。
荷造りをせよ。昼食の前に出発だ」

返事をする前にヴァルトシュタイン卿は帰っていく。

「はい!」

置いてきぼりにされたら迷いそうだと思って慌てて追いかける。
歩き始めて、スザクが廊下に立っていることにやっと気づいた。

「空」
「スザク……」

足が自然と止まる。
スザクが歩み寄ってくれた。

「ここには二度と戻れない。
エリア11に……日本に行くんだね」
「ごめん!
スザク、ごめんなさい!」
「会いに行きたい、そう思ったんだろう?」

優しい表情でスザクは微笑む。
震える自分の手を握り、頷いた。
ひどいことをしてしまった。
そばにいたいと思ったくせに、自分から裏切って。
スザクはさらに距離を詰め、元気が出るおまじないをしてくれた。

「スザク……ありがとう……。
いつか絶対返すから……。
優しくしてもらった分も、助けてもらった分も、ぜんぶ……」
「返さなくていい。
僕のほうがたくさん助けてもらっていたから。
キミの幸せを祈ってる。
ずっと、ずっとだ」

ギュッと抱きしめ、スザクは離れた。

「荷造り、手伝うよ」

スザクが手伝う必要がないほど、あたしの私物は最低限だ。
荷造りよりも部屋の清掃のほうに時間をかけた。
残された時間は全て挨拶に費やす。

ノネットさんから紫のハンカチと砂糖漬けの花の瓶詰めをもらった。

「来年の春、桜が満開に咲く頃、わたしはエリア11に行こう。
だからさよならは言わない」

ジノにはヒョイと抱き上げられ、ギュッとしてもらった。

「きちんと食事を摂るんだぞ!!」

アーニャからはアドレスの書いたカードをもらった。

「私の記録、見てもいいから」

そして、元気が出るおまじないをアーニャもしてくれた。

あまり話したことがないラウンズの女性2人────エルンスト卿とクルシェフスキー卿も挨拶に応じてくれた。

いつもご飯を作ってもらっていた調理師の方にも挨拶した。
渡されたのはランチボックスで、食べていなかった朝食が入っていた。

「ありがとうございます。いただきます」

その後。
廊下で、ブラッドリー卿は露出度の高いパイロットスーツを着た女の子と共にいた。
挨拶を言おうとしたら、凶器をビュッと投げてくる。
スザクがすぐに動いて素早くキャッチする。
ニッと笑ったブラッドリー卿は無言で行ってしまった。
女の子がひとり、タタタッと駆け寄ってくる。
「ルキアーノ様から贈り物です」と白い花を一輪手渡してきた。
一輪といっても、小さな花がたくさん集まっていてちょっとした花束みたいだ。

「ありがとうございます……!」

あたしのお礼にお辞儀をして、女の子は去っていった。

「こんな花、中庭には咲いてなかったよね。
なんて名前の花なんだろう」
「知ってる。これの名前は確か……ヘリオトロープだ」

自分の部屋にあった花をプレゼントしてくれたのか。
関わりたくないと思っていたけど変な気持ちになった。

いつも診察していた部屋に顔を出す。
いたのはアイングシャ先生だけだ。

「心拍計のモニターは継続してください。
報酬はこちらのカードに入金しますから」

封筒とカードを手渡された。

「……あと、政庁には僕の恩師がいます。
軍医の人間です。
その封筒を渡せば、手厚く歓迎してくれるでしょう」
「ありがとうございます、アイングシャ先生」
「君の脳はエリア11で大きな刺激を受け、数値が大きく変動する。おそらくだけどね。
はっきりとは思い出せなくても、君の心は覚えている。
いろんなものを食べて、たくさんのことを経験するんだ。
行ってらっしゃい」
「はい。行ってきます」

いつもと同じ無表情だ。
でも声音はいつもより優しかった。

そして、あっという間に出発時間。
飛行機に乗る時はヴァルトシュタイン卿しかいなかった。

「いつも助けてくださってありがとうございます、ヴァルトシュタイン卿。
お世話になりました」
「これを枢木卿から預かっている。
受け取りなさい」

スッと差し出してくる。
それは、かつて謝礼だと渡されてスザクにそのまま流した封筒だった。
受け取って気づいた。前より厚みが増してる。
白いマントが揺れ、音も無く離れていった。

「ありがとうございます! ヴァルトシュタイン卿!!
あたし……エリア11で頑張ります!!
全力で捜します!!」

ヴァルトシュタイン卿は足を止めない。
どんな言葉をかけても振り返らないだろう。

ヴァルトシュタイン卿の姿が見えなくなってから、現れたアーサーが近づいてくる。
今日で最後だ。抱っこさせてくれた。

「ありがとう、アーサー。
ずっと大好きだよ」

アーサーを降ろし、さよならする。
それから飛行機に乗り込んだ。
二人しか搭乗できない小さな飛行機は、ゆったりしたシートにテレビも設置されている。
大きな封筒が置いてあった。
エリア11で生活する上で必要な身分証明書や、書類が他にも色々入っている。

「到着は……明日の夕方5時過ぎか」

日本の情報はスザクに聞いただけだ。
ドキドキする。
不安で胸がいっぱいになる。 

でもこれは、あたしが望んだことだ。
この先ずっと頑張らなきゃいけない。
スザクがそばにいなくても、
ジノとアーニャと話せなくても、
アーサーを撫でられなくても、
ノネットさんや先生と会えなくなっても。

「大丈夫。あたしは大丈夫」

ペンダントを握れば、不思議とやる気が溢れてきた。
日本に到着するまでたくさん考えよう。
これからどんなふうに生活していくのかを。


  ***


付けっぱなしのテレビの時刻を見る。
もうすぐ日本だ。
降りる準備は完璧にしている。
見ていた番組に砂嵐が走り、映像が切り替わる。
テレビに現れたのは黒ずくめの誰かだった。

『私は、ゼロ。
日本人よ、私は帰ってきた!!』

高らかに宣言してるけど意味が分からない。
口がぽかーんと開く。

「……誰?」

すっごい格好だなぁ。
と、それだけ思った。


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