瞳を閉じれば今でもはっきりと浮かんでくる、大好きな笑顔。
 差し伸べられる手は少年のもので、幾分か頼りなくも見えたがそれは己も同じ事、重ねた自分の手も小さく幼い。
 外に出るのは決まって夜で、闇に染まる森は1人なら決して踏み入る気は起きなかっただろう。でも、傍らにはいつだって彼がいた。彼の言う『とっておき』の場所に向かう間、彼は常に自分を気遣ってくれて。屈託の無い笑顔を向けられれば、湧き上がる僅かな不安など一瞬にして霧散してしまい、後はもう楽しいばかりだった。尽きせぬ興味を抱く自分がどれだけ彼を振り回そうと、彼は全てを許容し傍にいてくれた。
 最初にして唯一の『お友達』が『最愛の人』になるのに然程の時間もかからなかった。

 音をたてて開かれる瞼。そこに映る青空。透き通った青に、しかしその美しさを感じられなくなったのはいつからだったか。

 いつか迎えに来てくれる。それが彼女にとってどんなにか大切で、手放し難いものであったか。それは彼女をよく知る者からすれば比を見るよりも明らかで。それ故に、それを打ち砕かれた彼女に訪れるであろう衝撃を思い、躊躇うのだった。しかし、彼女の心を誰よりも慮っても良いであろう唯一の肉親は、笑みすら浮かべてその事実を彼女に突きつけた。
 その結果、彼女に何を齎すのかなど関係ないと言うように。
 初めから、娘に対する配慮など欠片も無かった男は、娘が見ていた夢を引き裂き踏み躙った。
 悲しみに涙を流す娘を厭い、貶し、唾棄する。突きつけられた現実から目を逸らそうとすれば、何度でもその事実を口にする。まるで毒のように侵食してくる闇に、娘の中の何かが壊れてしまったのかもしれない。

 灰色の空に浮き立つ心は無く、同色の木々に生命の息吹を感じる事も無い。現実の中に美しいと思えるものは何も無く、あるのは痛みと悲しみ。忘却を恐れて逃げ込むのは、甘美な幻の中。抜け出そうなどと思った事は無い。
 彼のいない現実から目を逸らし、故に彼女は生き続ける。何れの日にか、再び逢い見える日を夢見ながら。


 少しずつ息を吸うのが困難になってくる。恐らくもう満足に酸素が行き渡っていないのだろう。焦点が定まらず、視界はぼやけ、見守る人々の顔も判別がつかなくなっていた。
 重みがかかっていた所為か始めは酷く胸が痛んだが、それすらももう既に
どこか他人事のようになっていた。
 思考はまるで霞がかったようにはっきりしない。だが、そんな中でも己が確実に死への階段を上っている事だけは強く感じ、口元にうっすらと笑みか浮かぶ。
 己をこの場に送り出した兄は、恐らくもうこの場にはいないだろう。それで良いのだと、そう思う。

 
 でもね、お兄様。私はやっぱりメルへの想いを捨てる事は出来ないの。
 お兄様は幼い恋だと、擬似にも等しいと笑うけれど、私にとっては私の存在以上に大切な想いなの。私は想いの全てをメルにあげてしまったから、この先どんな人が現れても私の心が踊る事はなかったと思うの。
 ただ流れに任せて生きてきたけれど、心だけはどうしても偽る事は出来ないわ。
 私はメルとの思い出があればそれで良いの。たった一つのかけがえのない大切な想いを抱えて、私は逝くわ。これ以上は何も望まない。もしも、なん幻想がありえないだろう事は知っているけれど、それでも抱かずにはいられないの。
 だって、私にはそれさえあれば充分なんですもの。


 訪れる者が絶えて久しい教会の中、生の呪縛から解き放たれた少女が一人、己が一番幸せだったと、迷いもなく言い切れる時間に在った姿で無邪気に笑う。我慢する事無くいられる己が嬉しくて。大切な想いを抱き続けられる喜びに身を震わせながら。
 どれ程の時が過ぎたのかは明確ではなかったが、少女の想いの深さに従うように変わる姿。やがてそれが、背後にある己のものと変わらぬほどになった時、どこからともなく聞こえてきた涼やかな音。
 それが何であるのかを知っているのか、それまで己のみで構成されていた世界から意識を引き戻した娘の視線が扉の方へ。
 華やかな微笑を浮かべた娘の瞳は扉から僅かにも逸れる事はなく。

 そして漸く、約束は果たされる―――




END.

 エリーザベトが幸せであれば良い。

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