その娘には、命よりも大切なものが一つあった。
 娘にとってそれは、幼い時分より娘の傍らに在り、娘の全てを許容し包んでくれる存在だった。
 娘にとって、それはどんな意味を持っているのか。幼い時分なら、兄と応えたろうし、少し世間を知るようになってからは幼馴染と応えたろう。また、難しい年頃といわれる頃には反発したかもしれない。
 でも今そう問いかけられたなら、きっと極上の笑みをその口元に乗せながら言うのだろう。『何者にも変え難い、唯一愛した者である』と。

「エンディミオン…」

 零れた声は、まるで砂糖菓子のように甘く、艶を含んでいた。だが、それを受け止める相手は目の前にはおらず、それどころかかの人物は、今は何処とも知れぬ空の下。娘の声など聞こえるはずの無い場所にいた。
 それでも娘はまるで彼が目の前にいるかのように名を呼び、彼の声が聞こえているかのように耳を澄ます。

 不意に、娘の頬を風がそっと撫ぜて行く。それは彼のさらりとした手の感触に似ていて、娘の口元が嬉しそうに弧を描いた。
 閉じていた瞼を押し上げ視線を上げれば、目に飛び込んでくる星。北天に輝くそれは決して動く事がないのだと、教えてくれたのは彼だった。だから旅をするものは、その星を目印にするのだとも。立ってる場所は違えど、同じ星を見ているという事が嬉しくて、娘はその想いを抱えたまま、唇を開いた。流れる水のように零れ落ちた音は、懐かしい彼との思い出の中、2人で幾度と無く歌った詩。いつまでも色褪せる事無く存在する、彼との絆。
 ルーナは、彼の声が好きだった。彼の歌は彼の気性そのもののように優しく響き。彼が歌うと、その声に誘われるかのように小鳥が集まり、花たちは、まるで競い合うようにその姿をより一層輝かせるのだ。

「ルーナ!」

 飛び込んできた声に娘の肩が揺れ、歌が止む。自分の名を呼ぶそれに視線を落とせば、案の定、それは見慣れた友人の顔であり、常のように呆れたような、怒ったような表情でこちらを見ている。
 そんな友人を、困惑するでもなく見つめ立ちつくす娘、ルーナに痺れを切らしたのか、彼女は止めていた足を踏み出し、そのまま真っ直ぐにルーナのいる位置へと駆け上がってくる。
 ルーナのいる露台はお世辞にも立派なものとは言えず、彼女が歩を進める度に軋んだ音を立てて揺れるのだが、慌てるでもなくそこに立つ姿は、その状況が如何に慣れたものであるのかを物語っていた。

 あっという間に階段を駆け上がって来た友人は、大した距離でもないからかさして息を乱した様子もなく、ルーナの目の前に立つなり彼女の行為に対し、多分に呆れを含んだ声色を漏らす。
 そのまま顰めつらしい顔で、もう既に日課となってしまった小言を繰る友人に、ルーナは嫌がるでもなくそれを聞いていた。
 だがいくら心を尽くして諭されようと、ルーナは夕暮れになると決まってこの場所へとやって来る。
 ここはルーナの住む村で一番高い場所。何も遮る物の無いここは、星を見上げるのに最も適していた。それにこの場所は、大切な彼との思い出が一番多いと言っても過言ではない。
 感傷的になっていることは自分でも良く分かっていたが、どうしてもこの場所に足が向くのだ。そして、その度溢れてくるのは彼と過ごした時間。

 どんなに悲しい事があっても笑顔を浮かべる事が出来たのは、彼がいたからだ。楽しい時は共に笑い、悲しみに涙を流せば彼が優しく拭ってくれた。ルーナにとって彼と共にある事は、まるで宝物のような大切な時間であり、呼吸をするように当たり前の事だった。彼が、いなくなるまでは。
 常に在ったその温もりを感じる事が出来なくなって、一体どれ程の時が経ったのだろう。ルーナの脳裏には、最後に見た彼の淋しげな笑顔が今でもはっきりと焼き付いている。
 彼は新しい世界を見てみたいと言っていた。違う土地の空気を感じ、そこに住む人々の営みを知り、新しい詩を作りたいのだと。そしてそんな新しい発見を、ルーナと共に見つけて行きたいとも。
 まだ一度も村の外に出た事が無かったルーナは、それが途方も無い話に思えた。いきなり外の世界だなどと言われても、不安しか見出せなかったルーナは、結局彼の言葉に耳を塞いだ。
 彼が村を出る日の朝も、折角家に来てくれたのに、部屋に閉じ篭って顔を見せようともしなかった。
 旅に出る覚悟など出来ようも無く。もしかしたら、自分が行かない事で彼の気が変わるかもしれないと思ったのも事実で。だが、結局彼は一人で行ってしまった。

『僕の声も詩も。ルーナ、全部君のものだよ』

 開かない扉越しにかけられた言葉は、今でもはっきりと耳に残っていて。
 己の身勝手を棚に上げ、行ってしまった彼を恨んで何度泣いたかもしれない。
 そして、その度に彼の居ない日常が旅に出ようと言われた時の不安よりも、遥かに重く苦しいものであるのかを思い知らされるのだった。


 あの時は不安ばかりが先行して、根底にあった己の気持ちに気付く事が出来なかった。でも、今ならはっきりと分る。どんなに慣れ親しんだ風景でも、彼がいないというそれだけで、急に色褪せてしまい、まるで見知らぬ場所のように余所余所しく感じられた。

 今からでも間に合うのならば、彼に逢って伝えたい。己にとって、彼がいる事がどんなに重大な意味を持っているのかという事を。
 そして、彼が言ってくれたように、己の声も詩も、全て彼のものなのだと言う事を伝えられたら。

 ルーナの瞳の中に宿る決意の輝きに気が付いた友人は、それで全てを察したらしく、悲しげに表情を歪め口を閉じた。
 ルーナの心はもう決まってしまったようだ。見た目儚げな彼女が意外と頑固である事を、友人は良く知っていた。
 だから、友人は何も言わずに踵を返す。飛ぶように駆け上がってきた階段を、今度はゆっくりと下って行く。
 ルーナはそんな友人の背中を黙って見つめ、不意に聞こえた「ちゃんと帰って来なさい」という声に目を瞬き、嬉しそうに顔を綻ばせ、頷いた。


 ルーナは目の覚めたような思いで、空を見上げた。
 もう既に、夕暮れの余韻などとうに無くなり、一面の星空が広がっている空。そんな中、目に飛び込んできたのは導きの光。星の巡りの中心にあるその星が、彼と己を繋いでくれる、そんな気がした。




END.

 私が感じるルーナさんの歌声は水の流れのイメージで、川で喩えるなら、上流より下流のような気がします。


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