モスクの尖塔から夜明けの礼拝が響き始めた。七つの定型句からなる詠唱は風に乗り、城壁を隔てたキリスト教徒の野営地まで流れ込んでくる。それに対抗するように、幕舎の中では礼者達が聖歌を歌い始めた。

 二種類の旋律に耳を傾け、悪魔は喉を唸らせる。

『剣だけでは飽き足らず、祈りまでも争うか』 

 彼は翼を震わせると、二つの陣営を見下ろす崖の中腹に降り立った。人ならざる彼の耳には、離れた場所でもある程度の様子を伺い知る事ができる。アラハンブラで膠着状態に陥った両軍が、今日も今日とて不毛な張り合いをしているのが分かった。

 それぞれの旋律は単体で聴けば美しいが、何故、混ざり合うとこうも耳障りなのか。土埃で空気が霞んでいる理由すら、風ではなく人々のぶつけ合う祈りのせいだとすら思えてくる。悪魔は微かに鼻の上にしわを刻み、憂い顔で呟いた。

『神の教えは必ずしも人を救わない。そう、歴史が証明していると言うのに』

「……貴方の言う事は正しすぎて時々辛いわ」

 腕の中の少女が苦笑する。

「私には教えにすがる気持ちが分かる。怖くて、今でも神様に泣きつきたくなる日があるから。隣に貴方がいるのに」

『……ライラ』

 応じる言葉を持たず、悪魔はただ少女の名を呼んだ。人間の気持ちは計り知れない。しかし、この契約者を苦しめるつもりはなかった。かつて人の子であった彼女の心境をどうあっても自分が理解できぬなら、言葉よりも名を呼ぶ方が誠実である。

「おかしいわね。それでも何故、祈る人の姿は美しいのかしら」

 腕の中から身を乗り出すようにして、彼女は眼下の風景を眺めた。実際に礼拝する人々が見えているわけではない。過去、それを実感する何かがあったのだろう。その口調は静かだった。悪魔は無言で想像を巡らせながら、不安定な小さな背に手を添える。

 関わらない、と言う選択肢もあった。既に少女も悪魔の眷属。聖戦などと言う面倒な争いから背を向け、自然豊かな山麓で静かに暮らせばいい。そうであったらならどれだけ平穏な生活が自分達を待っていたのだろう。

 止めればいい。憎しみの矛先を向けられるのが恐ろしいのなら。しかし少女は歯を食いしばり、その矢面に立つ事を望んだ。その姿は痛々しくも誇らしく、悪魔は思考の片隅で、あるいは人間が神を想う時こんな気持ちになるのだろうかと考える。

「行きましょう、シャイターン」

 促す声に翼を広げる。自分達はこれから人々に徒なす者として、火を放ちにいくのだ。




END.

うつくしくしなやかに人類の敵。

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