人々の生活圏から一歩脇へと逸れれば、そこは所謂裏通りと呼ばれる所。淀んだ空気が凝る空間は、夜の闇を受け一層の存在感を増していた。
 そんな薄暗い通りを進んで行くと、ある一角がぽっかりと明るくなっていた。掲げられているブリキ製の看板はひしゃげ、湿った風に煽られ耳障りな音を奏でながら揺れている。お世辞にも上等とは言えない酒場。そこは、光を求め自らの身を炎に捧げる蛾のように集まってきた人々で、溢れ返っていた。
 壁に吊るされているランプのほの暗い明かりが、店内の様子を浮かび上がらせている。ランプの光を受け止める壁は、初めの内こそ白かっただろうに、今や油や煙で薄汚れ見る影も無い。
 そんな中、男達は昼間の誠実さをかなぐり捨て、思い思いに酒を酌み交わしては声を上げる。その声に混じる女の笑い声は艶めいて、媚が多分に含まれていた。夜の気配と自ずと寄り添う酒精に、人々は今宵も理性を彼方へと葬り去っていた。

 そんな中、周囲の空気に染まる事無く傍らに侍る女のまろやかな腰を抱き、時折その耳元に睦言を囁きながら、男は不恰好な形のジョッキを煽る。

「ふむ、ここの酒の不味さは何処か懐かしいような気さえしないか?」

 口元に着いた泡をやや乱暴な仕草で拭い、食えない笑みを浮かべる男、イドルフリードの差し向かいに座っていたコルテスは、目の前のジョッキの柄を握り、だがそれを持ち上げるでもなく眉間に皺を寄せ、胡乱気な眼差しを彼に対して向けた。

「補給と称していつまで自由を満喫するつもりだ」

 本来なら最後の一人が船を下りるまで残るのが道理というものではなかったか。何故なら彼の立場はその船の旗頭、つまりは船長であるのだから。
 だが、イドルフリードは船が港に着くなり誰よりも早く渡された板を踏み、町へと向かった。
 彼らにとっては日常茶飯事であり、コルテスも最早見慣れた光景となっていたが、曲がりなりにも船の常識を知る者としては、多少の違和感は拭えない。

「自由…」

 やれやれと首を振り、大げさに肩を竦めるイドルフリード。皮肉気に口元を歪めコルテスを一瞥したと思えば、数瞬後には興味をなくしたように寄り添う女へと意識を移す。そんな彼には、海より陸の方が似合っているのではないかと思わせるに十分な姿であった。


「時々、お前が海に生きる者だという事を忘れそうになる」

 仮にこの目の前の男が一介の商人であったとしても、多少驚きはするだろうがいつの間にか受け入れているだろう自信はある。海という自由であり同時に常に縛られているも同義である状況を、目の前の男が感受している今が本当は異常なのかもしれない。コルテスの脳裏に、そんな考えが過ぎる。
 つらつらとそんな事を考えながら多少温くなった酒を煽り、再び視線を戻せば、虚を突かれたかのような表情を浮かべるイドルフリードが目に留まる。何とも珍しいものを見た。

「随分と面白い事をのたまうじゃあないか。私がどうして海を忘れられると言うんだ。私にとって、海は謂わば命そのもの。切り離されれば、私は忽ちその命を散らす事だろうよ」

 酷い事を言うものだ。と、イドルフリードは悲しげに柳眉を寄せて非難する。その整った顔も相まって、被害者の体を博すには十分であった。その証拠に、彼にしな垂れかかっていた女が非難めいた眼差しをコルテスへと向けている。
 しかしそんな事で傷付くような輩でない事は、其れほど長い付き合いでもない自分でも知っていた。一見吹けば飛びそうな風体をしておきながら、実際はそんなに柔な性質ではない。

「お前のその図太い神経なら、陸に上がったところで何の支障もなさそうだがな。寧ろお前がそんな愁傷な人間だったとは知らなかった。残念ながら、俺もお前の船の者達もそこまでお前を見縊ってはいないからな」

 どこまでもそっけない物言いに、しかしイドルフリードはご名答とでも言いたいのか、顎を上げ口元を引き上げる。


「仮定の話など、結果何も生みはしない」

 飛ぶ話題と、吐き捨てるように言い切るイドルフリードを前に、違和感が首を擡げた。それもその筈、いつもなら相手を煙に巻くように言葉を並べ立て、有耶無耶にしようとする彼が、にべも無く言い切るのは非常に珍しい事だった。
 もしや久しぶりの普段より幾許か濃い陸の酒が、珍しくこの男に酔いを齎したのだろうか。イドルフリードの真意が判らず窺い見るコルテスに気付いているのかいないのか、イドルフリードは傍らの女性にジョッキを手渡すと、女性は心得たように彼の元を離れ、カウンターへ。


「考えてもみたまえ、今己の立つ場所に不安を覚える人間は少なくない。例えば茂る枝の数だけ道が存在している中、その一つを選び取ったが故の今があるのなら、振り返り前に進む事に躊躇いを抱く事は、他の選び取らなかった道たちへの冒涜だとは思わないか」

 常のように饒舌に、しかしどこか必死に見えるイドルフリードに、コルテスは以前聞いた話を思い出す。彼が母国に妻と娘を残して来たのだ、と。
 イドルフリードが無類の女好きというのは否めない事実であるが、陸へと降り立てばすかさず人肌を求めるのは、残してきた家族への思慕を紛らわす為なのだろうか。そんな考えに至り、しかしそれだけでは無いのは明白で、結局掴めないのはいつもの事。コルテスは早々に、酒が不味くなる要因になりそうな事を考えるのを止めた。
 イドルフリードの弁を借りるのならば、結局のところそれを選び取ったのは彼自身であり、それゆえの重みを背負うのもまた彼自身であるのだから。





END.

 訳の分からないまま終わってしまいました。2人の性格を掴めていない事がありありと分かります。
 もっとこう、賢そうなイドルフリード氏が書きたいものです。


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