天に接する面は銀、地に接する面は黒。二層に分かれた雲は時折はっとするほど青い空を覗かせながら、ゆるゆると風に乗って形を変える。

 野営地で過ごした日の明け方、進軍の時を待ち、将軍達が見晴らしの良い丘に集まっていた。彼らは小声で何か言い合っていたが、頷きを一つ落とすと散り散りになり、指揮すべき己の隊へ戻っていく。

 不規則な雲は濃淡を変え、南へと流れていった。雷神の血を引くが故、天候に敏感なアルカディオスは嵐の気配を肌で感じ取る。鎧の隙間から忍び込む朝もやの空気と、ざわめく風の匂い。しかし頭上を流れる雲こそ鉛色だが、北の空は冴え冴えとした純白をしていた。風の流れによっては雨雲は呆気なく四散し、いずれ晴れ晴れとした青空が広がるかもしれない。しかしいくらアルカディオスと言えどもそれ以上の予測を付ける事は叶わず、漠然と空へ祈るのみだった。

 ただ一人、直系の王子を除いては。

 レオンティウスは馬の背に乗り、見るともなく平原を見つめていた。険しい山々が連なる麓から肥沃な大地が続き、柑橘の木々が羊の群れのように点在している。生れ付き雷神の篤い加護を受けた王子はしばらく無言で佇んでいたが、おそらく夕刻まで雨は降らないと予見し、その旨を傍らの兵に伝えた。兵は一礼すると走り去り、どの占い師よりも正確な知らせを伝えに回る。

 隣に馬を寄せながら、スコルピオスは無感情にそのやり取りを聞いていた。雷神の力を持たない彼には、雷を操るどころか天候すら満足に読む事は出来ない。しかしそれはとうの昔に飲み込んだ苦い事実で、今になって心を掻き乱すようなものではなかった。晴れようが晴れまいが、どちらにせよ戦は始まる。

「ラコニアでは」

 取り残された丘の上、視線を遠くへ向けながら、傍らでレオンティウスが口を開いた。

「赤い外衣を身に付けるのは、血を浴びても目立たないようにする為だと聞きました。本当なのですか?」

「……何故、聞く」

 スコルピオスは応じる。虚を突かれた事など露にも見せない、低い声音だった。かの軍を掌握し、密かに機を窺っているのは気取られてはならない事。言葉は短いものとなる。

「兄上が国境で目覚しい活躍をしているのは周知の事です。敵とは言え、あちらの習慣も熟知されているのかと。我が軍の装束も赤が基調ですが、やはり性質が違うようですから……」

 語尾を濁したレオンティウスの声は、そのまま風に運ばれた。彼も幼い頃はスコルピオスを兄と慕い、ころころと子犬のように付きまとったものだが、既にお互いの立場も弁えている。遠い昔であれば兄の活躍を聞き出そうと無邪気に話題を振ったのかもしれないが、儀式的に顔を合わせるだけとなった現在において、意味のない世間話をするとも思えなかった。憎まれているのを本人が自覚しているなら尚の事。視線を合わせなければ声も硬い。

 思えば稀な再会だった。レオンティウスが初陣を果たした際、スコルピオスはとうに王都から離れた駐屯地に滞在しており、今では年に数度、祭儀などで顔を合わすのみ。手合わせすらした事がなく、戦場で共に並んだのも今回が初。

 久々に会った義弟はどこか一線を引き、他国の客を扱うように振る舞っていた。非礼がないよう、場をしらけさせないよう、しかし決して弱みは見せないよう。生来の柔和な印象は薄れないが、ようやく突き放される事に慣れたのだろうか。スコルピオスの答えなど期待していないような、起伏のない声だった。だからこそ応じる気になったのだ。

「確かにラコニアでは返り血を浴びても良いように赤い衣を羽織る。不死身を思わせる為、戦装束には相応しいと。軍神マルスを象徴する色である事も理由の一つかもしれん」

 いくら腹違いの兄弟とは言え、王から雷槍を受け継いだ第一王子の方が位が高い。表向き無難に答えると、予想とは裏腹にレオンティウスはこちらを向き、驚愕の滲む声を上げた。

「敵の血の、赤なのですね」

「……何を驚く」

「てっきり己の血を流す覚悟の意味だと、そう思っていました。実り豊かな国だと言うのに、生きる人々がああも苛烈ですから――」

「お前も軍神に加護を祈るのか、血染めの衣に不死を願うのか。あるいはその思い込みのまま、己の血を流す覚悟でもあったのか」

 切り捨てるようにスコルピオスは畳み掛ける。何が義弟の興味を引いたのか知らないが、長い議論を楽しむ趣味はない。

 彼の指摘どおり、レオンティウスは一際鮮やかな装束を身に付けていた。暁の光で染めたような緋色の外衣に、金細工の腕輪と首輪。戦闘の邪魔にならぬ程度にと、軍馬にも織り合わせた飾り紐を付けている。義兄の切り返しにレオンティウスは顔を強張らせたが、軋むような苦笑と共に視線を流し、馬の首元をゆっくりと撫でた。

「私の場合は、単に目立つ為です。敵の目を多少は引き付けられるかと」

「随分な自信だな。全て薙ぎ倒すつもりか」

「……世界を統べるまで、私は死なないらしいですから。ならば、せめて皆の的くらいにはなりましょう」

 他の人間が言えば傲慢に違いない言葉を、レオンティウスは自制心の利いた声で返す。透明な声だった。しかし、どこか薄ら寒い。彼は馬の毛並みを撫でながら短く言葉を継ぐ。

「私の衣が赤く染まれば、兄上は喜ばれるのですか」

 誰の血で、とは言わなかった。しかし淡白な口ぶりの水面下、ざらりとした鬱屈を汲み取ってスコルピオスは口角を吊り上げる。腹違いの弟が、ようやく憎むに足る男に育ちつつあるのだろうかと期待して。

「珍しいな。当て付けのつもりか?」

「……失言でした。お忘れ下さい」

 だが僅かに見せた棘も、レオンティウスは静かに身の内へ引っ込めてしまう。彼は手綱を握って馬首を巡らせると、先に参ります、と丘を下っていった。そこに待つのは彼の兵であり彼の民である。スコルピオスは横目でそれらを流し見ると、無言のまま腰へ手をやり、剣の柄を確かめた。

 いずれ忌憚なく屠り合う日まで、先のない言葉ばかりが空虚に滑り落ちていく。ただ、そればかりの道だった。






END.

いまひとつ御題に添っていない気がしますが、Moiraはどのシーンを切り取っても「どこかで何か変えられたんじゃないか」と思えて歯痒いです。

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