「ボンソワール、菫の姫君」
片割れの人形とは違い感情の起伏と言うものに乏しい彼女が、彼を見止めた一瞬眼差しを僅かに眇めたのに気付いているのかいないのか、賢者はいつも通りの食えない笑みを口元に浮かべ、帽子を片手に優雅に腰を屈めるのだった。
少女は知らず溜息を吐いた。
向かいのソファに座る賢者はそんな少女の心情など関係ないとでも言うように、ゆったりと寛ぎ紅茶の香りを楽しんでいる。
そもそも何故こんな事態になってしまったのかと言えば、賢者が訪ねて来るタイミングが悪かったとしか言いようが無い。
いつもは片割れの少女人形と共にあちこち飛び回っている筈の己が偶々主の元へと帰還していて、更には主と片割れが共に所謂お昼寝を決め込んでいるこの時に、まるで見計らったかのように遣って来た賢者。その結果、誰よりも賢者を苦手と評する己がもてなす羽目になってしまった。
いつだって人を食ったような言動をし、相手の心を巧みに引き出すわりに、己の事に関しては一片たりとも悟らせないようにしている。
主である彼に望まれ様々な物語を運んでいる彼女は、結果様々な状況と人間を見てきた。そんな彼女が他のどんな人間よりも信用するに値しないと評しているのが、この賢者であった。
主や片割れがいる時なら兎も角、一人で賢者に相対するのはどうにも気が重く、少女は己の手元へと視線を落として沈黙する事しか出来ない。
伝言の真意を偽る彼の所為で、自分達の主が危うく闇の罠に導かれそうになった事も一度や二度ではない。そんな彼をどうしたら信用できると言うのか。彼曰く、それも一つの大きな流れの中に必要なものだという事だったが、如何せんその所為で被害に遭うのが主なのだから、それを許容しようと思える筈が無いではないか。
彼の真意を問い詰めたところで、彼が己の内を素直に語るとは思えない。大方上手く話をはぐらかし、煙に巻いてしまうのが関の山だ。それならば、出来るだけ彼とは離れ関わらないようにしなければ。
己の性は『死』。主が望むのは『生』。紫ではなく青なのだから…
「君達は、いや君は何故彼の傍らに居続けるのだろうね?」
そんな彼女に向けられた問い。
手元に向けていた視線を上げれば、投げかけた張本人は一瞬前の事などもう意識の端にも上っていないように、優雅にティーカップを傾けている。
その様子だけ見れば、ただの空耳だったのではと思える程で。
だが、紅茶の香りと味を十分に堪能した賢者は、満足したように一息、次いで再び口を開いた。
「彼に引き摺られる形で、未だこうして彷徨う彼に物語を運び続けている」
それは何故なのか。賢者は瞳を眇め、興味深そうに夜を抱く少女人形を見つめる。
何故そんな事を言われるのか。菫の名を冠する少女は感情の無い眼差しを賢者へと向けながら、内心で首を傾げる。
「聡明なキミのことだ。もう気付いているのだろう?」
賢者の口元が歪められる。一見可笑しそうに、意地悪げに。
「何をおっしゃりたいのでしょう」
皆目理解が出来ぬと言った様子の少女に、賢者はあからさまに溜息を吐いてみせた。
「キミは人間ではない。そして生まれていないとはいえ、彼は人間だ。これから先、それがどんな未来を生み出すのか。私としては興味深くもあるのだがね、それ故に気になるのだよ。何故、そうまでして己の願望に蓋をするのだろう、とね」
「願望?」
少女の表情が変わる。それは、賢者の言う意味が理解できないからなのか、それとも分かるからこそのものなのか判断する事は難しく、しかし賢者の言葉が少女の感情の何かを揺さぶったのは確かであった。
「そう。気付いていないとは言わないでくれ給え。誰が見ても明らかな……そうだね、では質問を変えようか。君の片割れ、紫陽花の姫君は彼をどう想っているのだろうね?」
何を言っているのか、少女には理解が追いつかない。彼は自分達の主人であり、存在意義の全てである事は、賢者とて疾うに知っている筈なのに。
賢者の真意が掴めず困惑する少女の眼差しは、迷子の子供のそれで。
そんな少女に更なる追い討ちをかけるかのように、賢者が僅かに身を乗り出し口を開いた。
「余り、僕の大切な家族を苛めないでくれませんか」
少女が弾かれたように振り向くと、そこにはまだ夢から完全に醒めてはいないのか、幾分かぼんやりとした眼差しの主が。そして、その傍らには片割れの姿。片割れの少女は主の左腕に抱き付き、同じようにぼんやりとした眼差しで立っている。
「おやおや、それは心外だね」
真向かいだからか、2人が近付いて来ているのに気付いていたのだろう賢者は驚く事も無く肩を竦めた。
主は片割れをその腕に掴まらせたままソファを回り込み、少女の左側へと腰を下ろした。
「ヴィオレット、僕にも温かい紅茶を入れてくれるかい?」
「かしこまりました」
穏やかな笑みを浮かべる主に、少女は頷き立ち上がる。ワゴンへと向かう足取りは、軽い。
主の登場に安心したのか口元にうっすらと笑みすら浮かべる少女に、賢者の眼差しが愉快そうに眇められた。
少女は大切な主の為、殊更丁寧に紅茶を淹れる。ティーコゼを被せ、砂時計を引っくり返し、暫しの待ち時間。少女は賢者と談笑する主へと視線を向ける。
主寄りかかっている片割れの姿。主はそんな彼女を突き放すでもなく当たり前のように甘受している。
そんな2人の姿に、少女の中で何かが跳ねた。
双子の人形として生まれた己と片割れは、その名の通り同じような姿形をしている。服も、色こそ違えど同じ型で。違うのは負っている性だけ。
それが唯一であり決定的な違いであったのか、己と彼女はその性格がまったく違っていた。
片割れはいつだって主に寄り添うのも照れる素振りは見せず、ああして甘えられるのに対し、自分は心の中ではそれを望んでいながら躊躇いが生じて素直に行動に移す事は出来ない。ままならない自分に不甲斐なさを感じ、片割れに対し羨む気持ちが顔を擡げる。
「え…?」
少女の口から、吐息のような音が漏れる。今自分は何を考えていた?
見慣れた筈の2人の様子に、何故今こんな感情を抱いているのだろう。
混乱する少女の脳裏に、先程の賢者の言葉が過ぎる。
あの時少女は不可解ながら何かを感じ、そしてそれ故にこの事態に揺れるものがあった。それの導き出す答えとは―――
少女は恐る恐るといった体で自らの頬に手を伸ばす。触れた頬はまるで火のように熱くなっていて。
「魂無き人形がヒトに恋をする。ふむ、これは果たして天の配剤か、はたまた神々の企みか。何れにせよ有り得ないものが有り得てしまうとは…何とも興味深い」
賢者の呟きは、動揺している少女の耳に届いている様子は無い。はっきりと認識できる程に染まる頬。その瞳に唯一人、冬を冠する青年の姿を映して。
そんな少女の様子に、賢者はくつりと笑みを漏らすと、そ知らぬ顔で再びカップへと手を伸ばすのだった。
END.
…これは一体何でしょう。
予想以上に賢者が胡散臭くなりました。最初はある程度の黒さはあっても良いのかな。程度だったのですが。
賢者がお好きな皆様に、己の所業を深く陳謝致します。