シャワーを浴びてトランクケースから服を引っ張り出し、一通り身支度を済ませたナマエはベッドに寝転がりながらプッチの観光ガイドに目を通した。

「考えても分からないものは分からないし、この際旅行楽しんじゃうのもありだよね…」

昨夜、ホテルの予約はナマエの名義で取ってあったおかげで難無くチェックインする事が出来たのだが同行者がいないナマエにとってツインルームは充分すぎるものだった。部屋に入るなりベッドに倒れ込んだナマエは泥のように眠った。飛び起きてとっさに記憶を探るも見付からなかった。一時的な記憶喪失というのはよく聞く話だ。わざわざ病院に行く事なんてない。だが病院には連絡しなければ。記憶喪失で自分の周辺の事が分からないとはいえ同行者が気になっていたのだ。友人か同僚か、もしくは家族かもしれない。ハンドバッグを持ち部屋を出て、三階から一階まで降りフロントへ向かった。

「電伝虫お貸りできますか?」
「このフロアでお使いくださいね」

フロントマンから電伝虫を受け取り、ロビーの出来るだけ端のソファに座った。人は疎らだが何となく話を聞かれたくなかった。昨日サボから貰ったメモをバッグから出して番号通りにダイヤルを回す。

「プティ病院です」
「話がいってると思うんですが…ナマエです。昨日そちらに運ばれた女性は今どうされてますか?」
「話は聞いてますよ。それがですね…行方を眩ませてしまいまして…」
「え?」
「降りた駅でこちらのスタッフから自分の荷物を持ってそのまま走り去ってしまったみたいなんです」
「そうなんですか…行き先は?」
「いえ…申し訳ありません。失礼します」

顔も知らぬ彼女が不意に心配になってきた。海列車の中でサボは腕が折れてるんじゃないかと言っていたが、もし本当なら一大事なのに何故行方を眩ませたのだろう。突拍子もなくお腹が鳴った。腕時計に目をやると、部屋で行こうと決めていたカフェのモーニングタイムが終わっている時刻だった。とにかくまずは腹拵えだ。


▼▼▼


駅前の噴水広場から奥へと続くマリーナ通りにあるカフェのテラス席で自分に食物アレルギーが無い事に感謝しながらナマエはランチセットをぺろりと食べた。昨日から何も食べていなかったのもあるが美食の町と呼ばれるだけあり、予想以上の味にナマエは感心していた。追加注文したショートケーキと食後のレモンティーを飲みながら、彼女のことを考えていた。彼女は一人プッチへ向かっているのではないか。しかしそれならとっくにホテルに着いていてもおかしくはない。列車が遅れている?具合が悪くなって違う病院に運ばれた?憶測が憶測を生み、どんどん気が滅入ってくる。カップの琥珀色に映る自分の顔をしげしげと眺めるナマエにサボが近寄った。

「どうした?浮かない顔して」
「あ…サボ!」
「思ってたよりも早く仕事が片付いたんだ。あ、ハニーラテ一つ。その辺ぶらついてたらナマエいたからさ。今更だけど相席いいか?」
「ええどうぞ。そのシャツ素敵だね、似合ってる」
「褒めても何も出ねえぞ」

運ばれて来た随分と可愛らしい飲み物に口を付けたサボの姿にナマエは知らず知らずのうちに安心した。一人でいるのを心細く感じていたのだ。だが打ち明けるつもりはなかった。ただの旅行者を演じなければ。

「友人とは連絡ついたか?」
「…やっぱり入院する事になっちゃったみたいで」
「…そっか」
「残念がってたけど次の休暇にまた来る事にしたし、元気みたいだからそんな顔しないで」

嘘をつくのは心苦しかったが状況が状況だ。サボはどこか悲しそうに遠くを見つめるナマエの表情から何かを察した。カップをソーサーに置いてコートの内ポケットからパンフレットを出してテーブルの上に広げる。トントンと指でとある店の写真を叩いた。

「もしよかったらなんだけどあとで付き合ってくれないか」
「え?」
「同僚から頼まれた土産一緒に選んでほしいんだ。おれワインは全然分からねえんだよ」
「私もお酒のお土産頼まれてるの。私で良ければ」

そう言い、最後に食べようと残しておいた苺を口に入れた瞬間、突然頭のもやが晴れ、もどかしさのうちに初めて自分の過去が垣間見えた。海列車の中で向かい合う自分と女性がぽつぽつと話している。流れていく朧気な情景をはっきりさせようと必死になるほどぼやけていくようだったが心は軽かった。内容は分からないが会話の中で、彼女が私の名前を呼び、私が彼女の名前を呼んでいた。記憶の欠片が少しずつ姿を見せ始めている。これなら近いうちにきっと元通りになるだろう。

「カリファっていうんだ…」
「ん?」
「ううん何でもないよ。行こう」

先程とは打って変わって晴れ晴れとした表情を見せるナマエの手からサボは伝票を引き抜いた。


  

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