止めたいレコード

自分の今までの人生と因果関係にあるのかは判断出来ない。だが、これは失う痛みを知る罰なのだとそう受け入れた事もあった。

「地面にぶつかって弾ける音も、あの傘から流れ落ちる水滴を見るのも好き。あーあ何で置いて来ちゃったんだろう。それよりサボが傘を差して歩くの見た事あったかな」
「手が塞がるのが嫌なんだよ。荷物になるだろ。それにこれがあるしな」
「帽子ね、でもいつか形崩れしちゃうよ」

午後六時前の閑散とした大通り沿いに革命軍が二人。雨に降られる前に帰りたかった。いくらナマエが、去年壊してしまったお詫びにとプレゼントした薄いピンクとネイビーのストライプ柄の傘を差して歩くのが好きで、烏の群れを連れてきたような分厚い雲が広がる空に期待を込めた視線を向けてもその傘が手元に無いとなればまるで意味が無いのに。それでもナマエは雨が好きなんだ。

湿度をたっぷり含んだ生ぬるい空気は疲弊した身体にまとわり付き、離れるのを拒んでいる。この世の万物のありとあらゆる法則を無視し物理的な衝撃が身体をすり抜ける悪魔の実を飲み込んでから自分にとって不利益が生じることは無かったのだが、どうも内面的なダメージは今まで通り蓄積されるらしい。せっかくなら疲労もすり抜けるようにして欲しかった。珍しく疲れた。ほんの少しだが。ナマエは履き古した踵の低いヒールのストラップが擦れるのか片手で左右の足首をさすっている。

「痛いなら脱げって言ってるだろ。恥ずかしがらなくてもおぶさるくらいどうって事ねえだろう」
「違うって言ってるでしょ。少しむず痒いだけだから。サボってさちょっと過保護な所あるよね。基本雑に扱うくせにさ」

別に雑に扱っているつもりはねえんだが。憎まれ口を叩かれるのはソウルメイトだから。それで済む。

「それにこの靴全然疲れないんだよ。クッションも効いてるしコンバットブーツを履いてる時と変わらず走れるし踏ん張れるの。擦れるのが難点なんだけどね」
「そういやコアラともう何年も前か…随分と前に色違いで買ったとか言ってたよな」

ナマエはブラックであいつはブラウンだったか。顔を上げたナマエの真ん丸な目が動きを止めておれを五秒も捉えた。

「あれ?一人で買ったと思ってたんだけどそうだったっけ。コアラちゃんと買ったのならお気に入りのはずよね…最近忘れっぽくて。困ったな」

まただ。いつも一緒であんなにも慕っているコアラとの思い出もまた一つ抜け落ちた。いい加減慣れろよ革命軍参謀総長のサボ。ナマエは綺麗に磨き上げられたショウウィンドウに写る自分の姿を目視して前髪を押さえ付けてみたり飛び跳ねた毛先をくるくると指に巻き付けながら踵を鳴らし続ける。普段通りのナマエに倣って平静を装った。太陽を反射しない水溜りを大股で跨ぐ。

「あっムクドリだよ。二羽」

急に足を止めたナマエは昼夜の区別が付かない空に人差し指を向けるがおれの立ち位置からじゃ砂埃がまぶされた赤レンガの建物にちょうど視界を遮られる。背の低い戦友の目線に合わせて膝を曲げ、出来るだけ身体を寄せてみた。目を細めても見当たらねえ。

「どれだ?…まあ今日はこのまま一日が終わりそうな気がする。そんなにあの傘を気に入ってくれてるのならお前の傘を踏ん付けちまった甲斐があったな。正直、あの時はついにお前に絶交宣言されるのかと生きた心地がしなかったよ」
「ねえ、誰かと間違えてない?あれは自分で買った物だよ」
「あ…お前じゃなくてタマラか、おれの勘違いだったな」

凍え切った手で心臓を掴まれたようだった。ついにおれとの日々も砕いて粉にされ始めた。常々思う。やっぱりこの世界に神様ってやつはいないんだって。ナマエはずっと前に一度あの世にほぼ引き摺り込まれていた事があるらしい。おれがあいつを必要とするように革命軍の皆もあいつを必要としていた。革命軍幹部の一人であるエンポリオ・イワンコフが口にした悪魔の実の能力はホルモンバランスに訴え掛ける物である。答えは簡単だった。どんな方法であれ命を繋ぎ止める選択をしたのだ。だが時間と空間を捻じ曲げた生物が何の反動も無しに真っ当に生きて行ける訳が無い。そんな事分かっている。でも、次第に記憶が無くなって行くあいつを傷付けたくなくてそこにあまり触れないようにするくらい許して欲しい。黒い点がスローモーションのように空を切った。

「なあナマエ、あれはコウモリじゃねえのか?大きさが全然違うぞ」
「確かにそうかも。群れじゃないから間違えたのね」

今は第一段階。そのうちついさっき交わした言葉もバケツの水を流したみたいに綺麗さっぱり忘れて行く。第二段階ではきっと身体的な障害も出てくるだろう。じゃあ最後はどうなる?行く先々で医者の元へ駆け込んだ。誰が執筆したのかも不明な物も含め医学書と呼ばれる物は片っ端から取り寄せた。信じてない神様を恨んだりもした。諦められる訳が無い。だがどうしてやっていいのか分からない。これが悪だとして何が善なんだ。歩き続けたまま、力の入っていない右手をグローブ越しに軽く握られた。

「サボの勘違いなんかじゃないと思う。いつかだめになるんだって自分でも自分の事が良く分かるの。頭の中でガラスが音も無く一枚ずつ割れて組み立てられない所まで粉々になるような…そんな感覚がするの」
「何の話だよいきなり」

微かに握られていた手が離れ、足も止まる。目の奥が揺らいでいるのはナマエじゃない。

「私はただ毎朝目覚めたいだけ。気の許せる誰かにまともじゃない、馬鹿だなって言って欲しい。死ぬ必要なんて無いって」

正しい人間は幸せになれるなんて物語上だけだ。遠くの雲の上の上から紫色の稲妻が縦に走った。

「その先で傘買って戻ろう。そろそろ降り出しそうだ。二人で色違いでもいいだろ。ナマエ、お前は大丈夫、大丈夫だよ」

土砂降りになったら困るだろ。軋む心臓を振り切ってナマエの手を掴んで駆け出した。





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