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エースがこの船の一員となった。我らが船長のおかげか、はたまた頭のきれる一番隊隊長の計画か。もちろん私はエースとあの日以来まともに言葉を交わせていないので噛み付かれて痛い思いはしていない。とにかく、私の寝てる間にきらりと光る変化が起きたのだろう。もちろん良い変化だ。一日中、人の命を取る為の手段だけを考えたり一人きりでスープを啜るだけの食事なんて精神衛生上よろしくないもの。

歩き慣れた廊下をぐんぐんと進む。今日の偉大なる航路は快晴。丸窓の外の空と海はペンキよりも青い青だ。甲板へと続く扉を開けると季節外れの燃える日差しとその光に負けない大声が私を出迎えた。そんな中、仏頂面(本人にその気は無い)で仁王立ちで待ち構えられると眩暈がしそう。さようなら平穏な日常!なんて言いたくなるがこれも恒常的な日常。

「遅え。今朝は早起きしろって散々言ったよな」
「朝食を終えるのにちょっと時間が掛かったの。ちゃんと起きました」

どうだかねいなんて言いたそうな顔でデッキブラシを渡された。今日は大掃除の日。忘れてなんかいないのに。その証拠にお気に入りの服は着ていない事だってマルコは分かってるはずでしょう。甲板の染み付いた汚れをゴシゴシと落とすだけなのだが大所帯なのでその分自宅も必然的に広くなる。なかなかの重労働だ。そしてその汚れを流す雨降りの前日にこの作業を終えなければならない。どうやって雨の日を予測するのか?この一等航海士の頭の中には国立図書館の本全てが収納されているので凡人には到底理解出来ないだろう。

「なあに、いつまで見張るつもりなの。子供じゃないんだからやれって言われた事はちゃんとやるよ。規則も守ってる」
「はいはいお利口さん。おれにとっちゃあいつまでも子供だよい」

ボタンを外しブラウスの袖を二、三回折りながら言う。馬鹿にされるのは慣れっこ。されるがままにしているとマルコは振り返って気だるげな声を出した。

「おい、エース」

リック、ロドリゴ、ダニーの三兄弟の陰から顔を出すと、マルコお得意のこっちへ来いの指のサインを送られたエースはデッキブラシ片手にすぐこちらにやって来る。纏う雰囲気も足取りも穏やかで軽かった。一体マルコはどうやって野生のライオンの牙を抜いたのだろうか。

「何か用か」
「こいつはナマエ。ナマエ、エースに掃除道具一式がどこにあるのか教えてやれ。ついでに替えのブラシもな。ラクヨウの奴は力の加減ってやつを知らねえんだ。また壊しやがって」
「ラクヨウのだけ柄を鉄パイプにしたらどう。それにたまには自分で動けばいいのに。あとは何が必要なの」

マルコは左右に首を振ると視線で訴えた。いいから早く行って来い。反抗期の子供の扱いもお手の物。

「行かねえのかよ」

エースの声ってどうしてこんなに耳に残るんだろう。太陽の光をたっぷり浴びた健康的な肌とオレンジのそばかすが濡れている。

「ごめんぼーっとしてた。来て、こっち」

明るい場所にいたからなのか、船内に入ると急に目の前が暗くなって真っ直ぐ進みにくい。これって何だっけ?明順応は違ったかな。マルコに聞いたら模範解答が返って来そう。水をたっぷり吸い込んだビーチサンダルと木目の床がぶつかる間抜けな音でエースがついて来るのが分かる距離。倉庫と言う名のガラクタ置き場までは無言だった。扉の前で一通りの収納場所やこの船での使用頻度の高い物を伝えるとぼんやりと相槌を打ってるくらい。思い切り息を吸い込んでから息を止め、部屋に入りお目当てのデッキブラシを何本か抱えるとすぐに部屋を出た。こんな埃っぽい所に長時間いたら病気になる。吸った分だけ息を吐いた。

「コツは無いけど簡単でしょう。ここではまだ新人扱いし使いっぱしりにされる事も多いから…でもすぐ覚えられるよ」
「今まで悪かった。お前の家を壊したりして」

いきなりどうしたの。今まで上唇と下唇が瞬間接着剤でくっ付いていたエースが口を開いた。突然の事にちょうどエースの後ろの壁に掛けられているフューリーの抽象画と彼を交互に見てしまった。見下ろされる形になるがしっかりとこちらを捉える黒い目の中はどこまでも落ちてしまいそうに深くて、ナイフのような鋭い視線は無い。

「その…部屋の窓ガラスにヒビが入った時はこれからどうなっちゃうんだろうって思ったけど…デザインとして受け入れる。それにもう暴れたりしないでしょう」
「約束する」

酸素不足なのか頭が回らないが良い方向に進んでいる。

「そうしてくれると助かる。戻ろう。早く掃除終わらせてゆっくりしたいよね」

彼なりの礼儀なのかな。一度決めたら曲げない。この船に乗ると決めたからにはそれなりの誠意を払う…そういう事なのだろうか。エースは皆が思ってるような子犬じゃない。来た道を帰ろうとするとエースはデッキブラシを持つと言うのでお言葉に甘えて預ける事にした。その時、左の肘から上にちらりと模様の一部が見えた。今までシャツの袖で隠れて気が付かなかったが、記録指針とバングルを嵌めた逞しい腕にはタトゥーが入っている。歩きながら後ろに聞いた。

「ねえ、そのタトゥーのデザインは自分で考えたの。意味も」
「お前はおれがカタログを捲るタイプの男に見えるのか」

平然と言う。彼は無口ではない。家族と楽しげに会話しているのを見掛けた事も人づてに聞いた事もあった。

「だって私まだあなたの事何も知らない、興味本位で聞いただけよ」
「知っていたとしても教える日は一生来ねえだろうよ。お前にも誰にもな」
「心のままに行動するのは馬鹿馬鹿しいって思うの。そんなのって私は嫌」

胸の奥がちくりとし、無意識に歩く速度が上がった。碇よりも重くて強い意志を持っていて自分の決めたルールを貫く。だからと言って壁が取り払われた訳ではない。分かってはいても悲しい。身勝手な感情がうまれてしまう。エースは何も言わない。マルコの言う通り私は子供のままだ。

「何か冗談の一つや二つでも言って笑ってみたりするのも悪くないと思うの」
「もう分かったから少しは黙ってくれ」

口を噤んだ。歩み寄ってみても誰にだって相性というものがある。それにまだちゃんと自己紹介もしていないじゃない。ゆっくり時間を掛けてもだめだったらそれまで。そう、それまでだ。この廊下ってこんなに長かったっけ。

「静かにしてくれて助かったぜ。じゃなきゃこのデッキブラシで背後からお前を叩きのめしていたところだ…何だよその顔は、お前の望んだ冗談だろ」





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