証明

気温二十度を少し超え窓の隙間から乾いた風が滑り込む朝。膨らむ雲と雲の間には目覚めたばかりのとろける太陽が現れては霞む。新しい季節を肌と肺で感じて生まれたのは、短く切り揃えた若い芝生で雑魚寝するか影を落としてくれる木々の下にデッキチェアを置き、色とりどりの花の匂いに満たされながら上品にうたた寝という怠惰とも言い換えられる願望だ。ここ、革命軍総本部が設けられた白土の島バルティゴにおいては植物が自然になっているのを見た事がある奴は誰一人としていないと思うのだが。例にも漏れず結局おれも一度も見る事はなかったのだ。

元々私物が少なかった事もあり、鶏の脳味噌並みにスカスカになったトランクケースと熱を吸収しやすい真っ黒なコートは昨夜のうちに小船に積んだ。放り投げたという方が正しい。残りの荷物は二本足で移動可能な便利なこの身だけ。言う事の聞かない伸びた髪を耳に掛け、最低限の家具だけとなった部屋を出た。各地に散らばっている同志の数と同じだけの扉の前を通り過ぎる。コンバットブーツの踵がやけに鳴り、冷えた壁と天井に反響しては吸い込まれていく。あいつを見付けたのは一階玄関ホールへと繋がる階段に向かう途中だった。今は物置になっているはず部屋の扉が人ひとり通れるだけ開いていて、外から斜めに差し込む天然ライトでふわふわと落ちる埃がきらめいている。揺れるレースの奥のガラス一枚隔てたバルコニーでこちらに背を向けていた。

「おれが知らねえだけでここってそんな心打たれる景色でも見えるのか?…すげえ欠伸だなお寝坊さん。徹夜したのか」
「ずっとペンを走らせてたの。さっき終わったところで疲れてるから一人でいたかったのに空気読んで欲しかった。それに知ってるでしょ、何にもないよ」
「もう手伝ってやれねえぞ」
「思い出してもみてよ、航海術の勉強以外でサボが一時間以上椅子の上でじっとしていられた事が一度でもあった?手伝ったのは私」

呆れた口調でこちらも見ずに顔の角度そのままに言った。それはおれがパーソナルスペースに入るぎりぎりの所で景色を共有しても同じだった。仕切りの無い塩分濃度高めのプールに浮かぶおもちゃの小船。所々に鎮座する奇岩は光を反射し水溜まりに広がったオイルと同じ鈍い虹色の膜が張り付いていて、気難しい芸術作品になっている。それはこの建物も同様だった。火山灰によって形成された土壌から微かに舞う白砂。この青と白の見慣れた景色は瞼の裏まで焼き付いていて、剥がそうにも必死に抵抗するのだ。だがそれもいつかは消え失せる。

「あの船に乗って行くんだなって考えてみても実感が湧かないや。いつもみたくお土産よろしくねってふざけて頼んだら数ヶ月後には趣味の悪い置き物と一緒に帰って来るんでしょう」
「前のはそれなりに悪くなかっただろ」

手首の内側がちくちくとむず痒くなって外していたグローブを再びはめる。

「違うよ、この数年間でそれなりに良い線いってたのはピアノの演奏。指が長いから鍵盤を叩きやすいのかもね。心の底から驚いたもの」
「出来損ないのガキでも指運びの資質だけはあったみてえだな。お前の好きな…えーっと…スケルツォだったか?みっちり擦り込まれるまで聴き続けりゃたぶん弾けるようになる。そうだ、次の休みは三日後だし帰ったらそのまま夜明けまで…いや、何でもねえ」

実感が湧かないのはこっちも同じだった。欲しがらなければ失う事もない。おれがナマエの特別になってなくて良かった。この長い別れがナマエにとってもっとつらいものになっていただろう。おれはもう一つの、どんな奴にも引っ掻き傷すら付けられない絆との約束を果たす。一度目は失敗した。だが今回は内側から鳥籠を無理矢理こじ開けて飛び出すわけじゃない。大部分が間違っている。自分の足で立っているこの場所は鳥籠どころか扉には施錠する為の鍵穴なんてものはなかったんだ。ナマエはポケットの中身を取り出して広げ、落ち着いた風に靡かせてみせた。

「初めて会った時言ってたよね。ここに金色の刺繍があるけどこれが自分の名前だってはっきりとは言えない、誰かの落とし物を預かってただけかもしれないだろって。ここでの事を全部忘れて新しいサボになったって元のサボに戻ったって、私達の誰も怒らないんだから。借りっぱなしで返すの遅くなってごめん」

頬杖を付いてない方の空いてる手に畳んで握らせる。ウサギのヒゲみたく糸がほつれている刺繍が光った。正真正銘自分の名前。ここに植物がならないのも白砂を巻き込む風が吹くのも何も変わらないのだろう。変わる物と変わらない物。もう、二度と忘れたくねえ。光沢のなくなったシルクのハンカチはベストの内ポケットに忍ばせた。ナマエの顔をまともに見れたのは今この瞬間が初めてだったが、目の下には紫のクマが出来ていて疲れ切っている様子だった。視線が交わると力無く笑う。

「なあ、そんな生まれたてで何もかもがとろいビスカッチャがこれから器用にやっていけんのか。ハックとコアラだっていつまでもべったりってわけにはいかねえし、お前に付き合ってやれるのはおれみてえな心優しい奴だけだろ」
「心優しい?ううん、それでもここでなんとかやっていくしかないよ。教養が足りない私は重い辞書を引いて後回しにしていた報告書を書いたり消したり…きっと今までと同じ毎日を繰り返す」
「そうだな。いつも通り後方支援にまわってりゃたまに大怪我する程度で済むだろう」

もう何も言わなかった。言葉が尽きて口をつぐんでいても気温はどんどん上昇し、シャツと身体の間に生暖かい風が滑り込んではカーブの向こうに抜けていく。腹立つくらいに絶好の船出日和だよな。春は受難の季節っていうだろ。そういえば前もこんな天気だった。視線を飛ばした先の定規で引いた水平線は手を伸ばしたらきっと届く。

「でも私の生活からサボがいなくなるなんて想像した事も無かったから…今はちょっと寂しいかな」

耳に馴染んでいるナマエの声は掠れていた。喉に張り付いた言葉を絞り出そうとしたその時、眩しさに反射的に目を細めた。太陽の欠片が暗闇の中でチカチカと点滅し、隣のナマエは手の甲をぴたりとおでこにあてて強い日差しを直視しないよう遮っている。インクの跡なんて、絆創膏を貼った手の平のどこにもなかったのだ。最後の最後までおれ達の病気は治らないらしい。薄い身体を抱き締めて胸のあたりに押し付けた。

「このどうしようもない嘘吐きめ。お前が何考えてるかなんて手に取るように分かるんだよ。生きてる限りどうとでもなるって頭空っぽなりに泥だらけになりながら一緒にその目で見てきたじゃねえか。そうだろ」

もぞもぞと小さく頭を振ると気付けば二人ではらはらと水を零していた。今まで何が起きたって涙なんか見せようとはしなかったのに。混ざり合う匂いが輻射熱に溶けた。目の奥が痛むのは朝日が眩しいから。ナマエもそう言うに決まってる。





「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -