ロマンスの行方

午前六時五分。
紅茶を淹れたばかりの湯気の立つマグカップで手を温めていると少しは穏やかな気持ちになる…というのも新しい年が始まってから早くも三月の中盤に差し掛かろうとしているのに眠気を誘う春風が吹きそうもなかったからなのだ。毛糸の靴下を履いてベッドで縮こまる夜は一体いつまで続くのだろうか。窓の外は倒れた瓶から広がるインクの紺。意味も無くシュガーポットの蓋を開けたり閉めたりしていると、マグカップの持ち手に弱々しく当たって赤い球体は動きを止めた。朝からテーブルの端から端まで転がるはめになったのはツヤ出しのニスを塗ったような小ぶりの赤いリンゴ。スタート地点にいる犯人はごく自然にウインク一つしてみせた。

「こういうのは下から上に綺麗なカーブで投げるものだよ」
「そのつもりだったんだがナマエが上手くキャッチするビジョンが見えなかったんだ。背中にめり込んだらお前は一ヶ月どころか半年間治りそうにねえだろ?」
「嘘。忙しかったのにもうカフカ読み終わったんだ」
「あと数ページ残ってる」

たった今起きましたって寝癖をぴょんと跳ねさせている事以外は完璧なクールホイップの王子様は一人分の椅子を挟んだ隣の席に着いた。朝食のトレーを置き右脇に抱えていた定期購読している新聞を空けたスペースに大きく広げている。私とサボの間に透明人間が座っているみたいだ。頬杖を付いて世界経済面の複雑な文字の羅列を零さず吸収しながらサボは言う。

「今朝のメニューは何にしたんだ?」
「クロワッサン。会うのは一ヶ月ぶり…だね、夜中に着いたんでしょ?まだ寝てたって良かったのに。久しぶりのバルティゴはどう」

カプチーノの湯気と一緒に視線だけを飛ばす。

「ナマエが寝惚けたビスカッチャのままで安心した」

天井の高い食堂で顔を合わせる度に胃ははち切れないのかと聞くと必ず一拍置いてから、ナマエはお馬鹿さんだからおれと一緒に勉強しようななんて的を得ない答えが返ってくるのがお決まりだった。今更何も言うまい。時々精神年齢が実年齢より幼くなるサボとは長い付き合いで会話に困って五秒以上黙り込む事も「今日は良い天気だね」「そうだな」なんて遥か昔から現代まで普遍的に行われ続けている下手くそなキャッチボールをした事もなかったし、そこそこ良好な関係を築けていると勝手に思っている。トレーに乗る皿の枚数と盛られた量が年々増えていってるのは見間違いではないだろう。

「それにクロワッサンはメニューっていわねえよ。最低でもサラダにスープ、デザートが付いてメニューになるんだろ。そんなんじゃすぐまた捻挫するだろうからもっと栄養付けろ。肉食え肉を」
「これでも欠かさず筋トレしてるつもりなんだけどな。それに昨夜は遅かったから胃が受け付けなかっただけ。どうしたの、具合でも悪いの?全然手付けてないじゃん」
「一時間後また出るから先にこれだけでも目を通しておきたくてな」

隣国に触発されたのか同時刻に外務大臣が開戦宣言。遠い国の大々的な出来事でも誰もが聞き逃してしまう声が私達の活動に繋がっている。また忙しくなりそうだった。長い指が軍事パレードの写真が載る記事をめくる。いつの間に仕事熱心な参謀総長になったんだろう。付け合わせのプチトマトをつまむとおれのだぞとでも言いたげな不満そうな目と目が合ったのでここ数日ずっと気になっていた事を聞いてみた。

「欲しい物とかある?」
「これといってねえけど」
「毎年同じ答え。もちろん黄金のリンゴなんていらないって言うだろうし」
「ンなもん本当にありゃ誰も死なずに済むだろうが…待て、話が見えて来ねえ」
「小さい頃…エースくんやルフィくんと一緒にいた頃はどんな事をしたの?もうすぐサボの誕生日だよ」
「あーそういえばそうだったな」

いまいちピンとこないのだろう。海底に沈んだままだった重たい記憶を引き揚げてから迎える初めての本当の誕生日。ここでは自分のルーツがあやふやな人も特別珍しくはない。気の抜けたビールみたいな反応だった。小さな写真の所だけを器用に破り取って余白にさらさらと書き込んでいる。この万年筆は何年も前に革命軍の一員になった記念に贈った物でサボはペン先がガタガタいい始めてもテープで頑丈に固定して今も使い続けてくれていた。

「じゃあさ、欲しい物じゃなくてもやりたい事とか。私が叶えられる範囲なら何でも言ってみてよ」
「そう言われてもすぐには思い付かねえよ。当日はおれもお前も海の上だろうし」

真っ先に浮かんだのは悪魔の実だなんて物騒な名前の兄弟の形見。それをサテンのリボンを結んだ箱と一緒に渡すのは限りなく不可能に近かった。足りない頭を悩ませていると隣の椅子に移り、肩に逞しい腕が触れたと思ったらサラダボウルみたいな食堂の誰にも聞かれないように耳打ちしてくる。こそこそ。

「その日は内緒でおれと…」

それから新聞を大まかに四つ折りにして一纏めにするとようやくフォークに手を伸ばしたのだった。そんな事で良いの?瞬きせずにイエスと答えていたので手の中のお手軽なリンゴを齧る事にした。





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