御旗は破れ

例えばまだ行ったり来たりを繰り返す秋をすっ飛ばして冬が来たとしたら。雨なんか降っちまえば日が昇っている時間帯にもかかわらずどこか物悲しい雰囲気を纏っているし、晴れていたとしてもからっと乾燥した空気のせいで鼻の奥が痛くなるから願い下げ。表すなら限りなく黒に近いグレーってところか。寒い、眠い、帰りてえ(部屋に)。一晩で季節が巡ったのかと錯覚するくらいにいきなり気温が下がるのは偉大なる航路の恒常的な日常だった。廊下を真っ直ぐ進んだ突き当たりに同時に六人が使える共同洗面所があるのだがこんな早朝には誰もいやしない。鏡の中の寝起きのおれは、たった今視線だけで大量殺人してきましたって目付きで我ながらぎょっとした。ところで今は何時なんだ?冷蔵庫から取り出したような冷気に身震いしながら歯磨き粉のペーストを絞り出すとミント味。口の中まで冷える気がするから寒い日は嫌いなんだ。

「おはよう、今朝は冷えるね」
「おはよう」

仲良く隣に並んだのは確かちょっとだけ歳上らしいナマエ。背はおれの肩に頭が届くくらい。前を向いたまま挨拶するとナマエが鏡じゃない方のおれを見続けていた。

「か……」
「?」
「可愛い…なんて可愛いんだろうエースくんは」

泡が吹き出た。どうしたの?その寝癖。ちょっぴりつり上がった目と形の良いおでこ。そのキュートなそばかすは小さい頃にたくさん天使にキスされたんだね?なんて恥ずかしい事を弾丸みてえに言い出すものだからじわじわと顔が火照った。

「っ恥ずかしい奴だな!」
「いくら歳下でも男の子に可愛いはだめなんだっけ。えーと…」

えーとじゃねえよ。この船に乗ってから随分と経った気がするがまだ知らねえ事の方が多かった。オヤジの一日の酒の摂取量。今にもストレスで胃に穴が開きそうな一番隊隊長不死鳥マルコがいつ寝ているのか。それよりもナマエの方がずっと謎めいている。周りの話によると一応戦闘員らしいが纏う空気がとろんとしていてデコピンだけでやられそうだ。正式に船員として迎え入れられた日の夜に今までの無礼を一人一人に謝りに行ったっきり、あいさつ以外の言葉のキャッチボールを今の今までした事がなかった。けろっとした顔でナマエは言う。

「そんなに照れなくてもいいじゃない。褒めてるんだよ。初めて見たよ、エースくんトレーナー着るんだね」
「褒められた事なんて一度もねえしさみーし」

もごもごもごもご。暫しの無言。もうちょっとだけ素直になれたのかもしれねえけどそれはそれ。恥ずかしかった。ぺっと口の泡を吐き出して濯いでる間も「そうだなーなんて形容すればいいのかなー」なんて腕組みするものだからナマエが手に持ったままの歯ブラシを突っ込んでやった。大人しくシャカシャカやり始める。歯を磨く時にいつの間にか腰に手を当てるタイプ。同類。

「あんたいつもこんな早くに起きてんのか」

首を横に振る。

「今度からこれ使っていいよ。スースーしないからおすすめ」

そう言って指差したのはライオンとうさぎのイラスト付き子供用イチゴ味。歳上といえばこう…包み込むような穏やかさというか何というか。「紙」と呟いて猛スピードで駆け出した。紙って何だ。

「つーか歯ブラシ咥えたまま走んじゃねえよ!危ねえだろ!」

すぐに振り返ったナマエは指でオーケーマークを作った。ぐっと反射的に親指を立ててそれでよしのサイン。咄嗟にルフィ限定兄貴の部分が出ちまった。何なんだこの安堵と達成感は。そしてこの後、ナマエと入れ替わるようにやって来た船員達ににやにやされる羽目になる。早く戻って来ねえかな、秋。





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