info text, top


帰らない日々を 愛したひと

久しぶりにこんな風に声を張り上げたかもしれない。ぼんやりとそんなことを思っている半面、自分の仕出かしたことに大しての焦りも大きくて。
理由なんかない、なくていい、でも、これじゃいけない。どうしよう、どうしていいか、わからない。


「…え、と。…え?…俺、何か気に障るような…?」

直前までにこやかに言葉を連ねていた口が不自然に釣り上がる。
夏の太陽みたいな笑顔が消えて、苦々しいような、困ったような…あいつには似合わない笑い顔。全部全部自分のせいだと理解した時にはもう遅かった。

結婚して一年。
待望の子宝に恵まれて、生まれたばかりの我が子がいかにかわいらしいかと熱弁していた識は、本当に幸せそうだった。
いつもにこやかな識、だったけれど、今日は何時にも増して幸せそうで。俺はそんな識の笑顔が、嫌いじゃなかった、むしろ好きだったはずなのに、叫んでしまった。
『黙れ』
と。

それまで明るい声で満たされていた俺の部屋に、重たい空気が流れ始める。
そうさせたのは間違いなく自分自身なのに、それを無くすことは、出来そうになかった。

(…あかん、あかん。これ以上は無理や、もう、)

笑ってごまかしたら、識はまた笑って娘と妻の話しでもし始めるのだろうか。
笑ってごまかしたら、識は。



笑ってごまかしたら、 俺、は?


止まる。動かなくなる。
何が嫌なんだ、何が気に入らないんだ?識が幸せそうにしてるんだぞ?なんで、『大切な弟子なのに。』





「駄目じゃないですか社長。昨日も一昨日も寝てないんでしょ?少しぐらい仮眠とって下さいよ。」

唐突に二人の間を裂くように、くたびれたような怒ったような声が響く。声の主は、最近雇ったアルバイトの計名、だった、
隣の作業室から出てきた計名は、やれやれといった様子で俺を見る。止まっていた思考は相変わらず止まったままで、むしろ、計名の言葉の真意が全く読めない現状に置き去りにされたような気分になった。だって、そう、…俺が徹夜明け何て言う事実は、どこにもないからだ。

一瞬奴が言っていることが理解できなかったけれど、理解する間も与えずに、計名は俺の脇に腕を通して俺の身体を引きずり始める。
脇をホールドされて身動きできない俺を置き去りに現状はころころと移り変わっていく。



「堪忍なぁ識。この人寝不足と女の子の日でブルーやねん。」

「え、お、女の子の日って…」

「完徹三日目で二日目やねんて、寝かしつけとくさかい、今日は家帰りー」

「あ、ああ…でも、」

計名の笑えない冗談を聞き流しながら、明らかに納得していない声色の識を見る。ズルズル引きづられながら見た奴の顔は依然として状況が掴めていない様子で、眉間にシワを寄せている。
俺も同じような顔をしているのかもしれない。何がなんだかわからないのは、一緒だ。

押し込められるように、万年床の寝室に放り込まれる。振り返ると同時にドアが閉められて、扉ひとつ隔てた先で声がして。

「…あの、師匠に…」

「あー分かった分かった、社長が起きたら連絡させるさかい。あの人に今ぶっ倒れられたら困んねん、な?」

相変わらず意図の掴めない言葉。相変わらず意思の読めない口調。溜息混じりの計名。次第に聞こえなくなっていく、識の声。


カーテンを閉めたままの寝室は、まだ早いというのに薄暗くて、外が暗いのだと、わかる。そんな部屋の中、俺はみっともなく、閉ざされたドアに張り付き耳を宛てがって、扉の向こうにいる、あいつを辿って、


「…分かったでしょう。『師匠。』」


意外にも近くで響いた声は、先程と同じ疲れたような飽きれたような声で。
相変わらず意図の掴めない言葉。相変わらず意思の読めない口調。

「貴方に辛い思いはさせたくありません。だから、聞いてください。」

扉の向こうにいる計名は、どんな顔をしているのだろうか。


「『アレ』は、もう絶対に、貴方の手には戻りません。」

扉の向こうにいる計名は、何を、思って。

「だから、―――――ください、お願い、ですから。」

もう部屋から追い出されたのだろうアイツは、どう、思って。


相変わらず意図の掴めない言葉。相変わらず意思の読めない口調。
計名が今どんな顔をしているか、なんで今、俺は、こんなに切なくて気持ちが悪くてしかたないか。分からない。分からない。ただ。

格好悪く、みっともなく。隔てる扉に縋るように寄り掛りながら、いつの間にか聞こえ出した音に耳を傾けて。

(…ああ。)


水がたたき付けられる音。雨、だとわかる。先ほどより暗くなった室内。遠くで聞こえる、ゴロゴロという渦巻くような音。


(…アイツ、傘、持っとったっけ…。)

わけの分からない感情から目を閉じて、耳を澄ます。聞こえるのは本格的に降り出した雨音と、壁にかけた時計の音。
薄暗い部屋のなか、俺はただ、目を閉じて。
太陽みたいに笑うアイツが、風邪なんかひいたら大変だな、なんて。ぼんやり、考えた。


*****
100709 calm envy

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -