れいにー らばーず たいむ。
雨。
水がたたき付けられる音がする。上から右から左から。憂鬱な気分が俺に纏わり付き、離れない。
晴れていたら今日はあいつと出掛ける約束をしていたのに、と、舌打ちをする。
なぜ晴れていたら、なのかは、雨に濡れるのが嫌だったから。雨は嫌いだからだ。
汚いものを洗い流してくれれば、それでいいのに。雨は隠したいことを暴くことしか、しないから。
ぼんやりと考えことをしつつ、薄暗いキッチンへ向かう。同居人は二人とも、昼前に出掛けてしまった。ひとりきりは、慣れている。
ああ、憂鬱だ。退屈だ。
あの、日向の匂いがするガキに会えたら、この憂鬱は消えてくれるのだろうか。
コーヒーメーカーに水を注ぎ込み、同居人Bの大好きな珈琲を突っ込む。乱暴に蓋を閉めてスイッチオン。待っているのは退屈だが、それ以上に退屈をしていたのだ、まあ、いいか。
勝手に弄ると怒られる、が、知ったことではない。
俺は疲れていた。
『ピンポーン』
ん。
『ピンポーンピンポーン』
まあまあ。
『ドンドン』
おやおや。
『ニクスー!居るんだろ、チェーン外してくれーっ』
…ああ、疲れ過ぎて幻聴まで聞こえてきた。
同居人Bは昨日の夜から、一丁前に引っ掛けてきたツレとおデート(笑)だったはずだ。今ごろきっと、お連れさんの部屋で乳繰り合っているはずなんだ。玄関を遠慮なく叩いているわけがない。どんどんと扉を叩く音も幻聴だろう、ああ、可愛そうな俺。よっぽど疲れてるんだなあ、よしよし。
『おいニクス!居留守もいい加減にしろよ!あーけーろー!』
幻聴は更にボリュームアップし、おまけにテーブルの上に置いたケータイが鳴る音まで聞こえてきた。ああ、きっと俺はもう病気かなんかなんだ。明日あたり耳鼻科にいかないと、いや、精神科かもしれない。きっと初診は金かかるだろうから、髭にカンパしてもらおう。
まあ、自分はひょっとして普通ではないのではないか、なんて思うことはよくあることだ。気の迷いという言葉がある通り、人間の気というものはよく迷う。気分はよく浮いたり沈んだりするし、心は揺れたり弾んだりと忙しい。
そんな感性豊かな俺は、三歩で終わる短い廊下を抜けて、玄関に向かう。
この扉の向こうに広がる世界に、心を焦がしながら。
「新聞は読みません、テレビもないので見ません、帰ってくだサーイ。」
「俺は新聞の勧誘でもNHKの受信料徴収でもねーよっ!!」
チェーンがかかった扉を少し開けて、言う。
正直頭のおかしい奴ごっこも飽きたので、この馬鹿を虐めてみることにした。…ああ、このツッコミがいいんだよなあ、痒い所に手が届く感じで。
扉の向こうにいる同居人B、こと英利は、小さく覗いた隙間に手をかけ、閉めようとする俺に抗おうとする。
抵抗されるとついつい本気を出したくなるあたり、俺って可愛い奴だと心底思ってしまう。萌えキャラだなぁ、俺。
とまあ、ついついこんな感じで茶目っ気を発揮してしまったわけだが、俺は生まれもっての飽き性でもあるので、ひとしきり遊んだ後…ドアを開けてやった。
正確には、チェーンを外してやっただけなわけ、だけど。
「…だっさ。」
「うるへぇ!」
扉の向こうには頭の先から爪先まで、全身雨に濡れた…あれだ、濡れネズミ、が二匹。
同居人Bとそのツレ、ヒューが所在無さ気に苦笑いを浮かべていた。
「…床汚したら拭いとけよ」
「いやタオルもってくるとかねーのかよ!」
「へいへい、青髪ちょっと待ってろよー」
「ヒューにだけかよ!まあいいけど!」
いいのかよ、と思いつつ、脱衣所からタオルを二三枚引っ張り出し玄関の二人に投げ付ける。
お互いがお互いの髪やら顔やら拭いてやっている濡れネズミ二人を残して、俺はリビングに戻り、火燵に潜ることにした。
ああいう光景は、好きではない。
というか。
まああれだ。
俺は正直、あの青髪が、ヒューという野郎が、苦手だ。
同居人A、サイレンも、Bこと英利も。コイツら二人は、ムカつくことに俺という人間の考え方や行動パターンを、ムカつくことに(大事なことなので二回言いました)分かってやがる。俺自身が気付いていないことを、こうじゃないのか、ああじゃないかと、口にする。
それはきっと付き合いが長いから、だと何となく分かるのだけれど、この青髪は違う。
多く言葉を交わした覚えは全くないのに、あの男は、隠したいものを暴いていく。
まるで雨、みたいに。
あの瞳は、何もかも見透かしているんじゃないかと思えて、少し怖いのが本音だ。
雨は依然として止まず、雨音は依然として止まらない。
頭のおかしい奴ごっこも、英利で遊ぶのも、そこそこは楽しかったが…この憂鬱は拭いされなかった。
火燵に頭まで潜り込み、…寝ようとしたその時。
「鉄火が、ゲーセンで寂しがってた。…行かなくていいのか?」
仰向けの俺を見下ろす、青い瞳と声。
玄関先で仲睦まじくいちゃついていた片割れが、軽く首を傾げながら問い掛けてきた。
小さく舌打ちをしてしまったのはほぼ無意識で、身体を起こす俺に青い瞳のそいつは困ったように笑って見せた。
「何、喧嘩でも?」
「…いや。」
首にかけたタオルで頬を拭いつつ、ヒューは小さく問い掛けてきた。答えは簡潔に。声は小さく。べつに意識したわけじゃない、これも、無意識だ。
青い瞳。そこにうつる所在無さげな、俺。
いたたまれない気分になったので、目を反らした。…なんだよ俺。なんで、こんな情けねェ顔してんだよ。
誰に対してでもない問い掛けは、言葉にせずにかみ砕く。音にしなくてもこの男なら、分かってしまうんだろうけど。
(…だから、苦手なんだよ。)
見透かすような瞳。
見透かして、染み込んで。
「じゃあ、なんでそんなにふて腐れてるんだ?」
「…」
嫌味のない口調だった。ガキに語りかけるでもない、問い詰めるでもない口ぶりは耳に優しくて、それが更に不快だった。
不快で、嫌だった。
(…コイツはまたそうやって、俺の中に入ってきやがるのな。)
じゃあ、なんで。なんて。
こっちが聞きたいくらい、なのだ。
雨が降ったから出掛けたくなくて、鉄火と遊ぶ約束を断った。電話越しのアイツの声は小さくて弱々しくて、しょんぼりと頭を垂れているのが想像できた。部屋で一人いるのも憂鬱で、退屈で、物足りなくて、雨なんか降るから−なんて、あてどない感情を持て余して。
…だ、なんて。
なんて、くだらない。
「…行ってやれよ。鉄火、待ってると思う。…雨に濡れるのも案外楽しいよ、二人なら。」
ふて腐れてなんかねぇ。と。言おうとしたつもりで開いた唇を、閉ざす。青色の瞳が幸せそうに細められ、形のいい唇が弧を描いていた。アイツの髪から落ちた一滴の雫が音を立てたのを聞いて、俺は。
なんだ、最初から、俺は。
「…余計なオセワだ、っの。」
(…その通りじゃねーか。)
言葉が音に乗って、耳に届く。
会いにいく、そうだ、きっと。
背中を押されるように火燵からはい出て立ち上がり、テーブルに置きっぱなしにしてある財布をケツのポケットにつっこむ。ケータイは握りしめたまま、三歩で終わる廊下を抜け、玄関のホックにかけてある部屋の鍵を指で掬った。
「…あんたも大概不器用な人だな。」
「繊細かつ高尚なんだよ。」
靴を履きながら、背中に向けられた呆れ声を適当に交わしつつ、適当にチョイスしたビニール傘を手に、俺は扉を開いた。
新しい世界への扉、なんて仰々しいものではなく、玄関の扉を。
あのガキに会いにいくための、ドアを。
依然として雨は降り続けていたけれど、何故か憂鬱な気分はなくなっていた。あるのは、なんだろう。よく分からない、期待感。
(…会いた、いんだよな、オレ。あのガキに。)
結局はそれで、それしかなくて。
雨がどうとか、もう知らない。知ったことでは、ない。
結局は、そういうこと、で。
「いってらっしゃい。」
「……おー。」
雨は暴くことしかしない。
俺は−俺もしらない自分の感情を、他人に悟られるのが嫌いだった。だから、それを簡単にやってのけるこの男が嫌いだった、けれど。そのおかげ、で。分かることもある。
濁りのない目、嘘のない言葉、太陽みたいな、笑顔。
今俺が、一番欲しいもの。会いたい奴。
雨がなんだってんだ。
他人に感情が駄々漏れになったって知ったことか。
べつにいい。
どうでもいい。
俺は。
「…よお。予定変更、今からゲーセン。……おう、晩飯はトンカツ茶漬けな。……は?…ん、わかってる。じゃ、後で。……ああ、愛してるぜ、鉄火。」
ケータイを握りしめたまま、通い馴れたゲーセンに向かって歩きだす。
足取りは、軽かった。
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100930 拍手三代目