あなたの手紙には読めない字だけ。
脇に抱えた紙袋から透ける色は淡いピンク色。あいつが好きなあの漫画の最新刊。これを手にとるのがさほど苦にならなかったのは、もっと辛い何かを俺は知っているから。
「よお鉄火、元気そうじゃん。」
「慧靂!よく来たなーっ」
通い慣れた病院の一室。最近あたらしく作られたらしい一人部屋は、壁も床も真っ白で、あいつの赤毛がよく映える。
ここ最近、日の当たる所に出てないのだろうアイツの肌は、以前より白くなったように見えて、少し、せつなくなった。
後ろ手で静かにドアを閉めつつぼんやりとそんなことを考えしまうのは、なぜだろうか。
(鉄火が入院だなんて似合わないどころか、何の冗談だよ。)
呟きは噛み殺す。
だってそれは、あまりに残酷な現実だったから。
鉄火が入院してから二ヶ月経った。
ベットの上の鉄火は、二ヶ月前と同じように笑う。同じように、同じように。決定的な違いなんか感じさせないのは、きっと、皆が鉄火に二ヶ月前と同じように接しているからだと思う。
同じように、同じように。
鉄火が笑っていられるように。
「はいこれ。頼まれてたやつ。」
小脇に抱えた紙袋を差し出すと、鉄火は頬を緩ませる。紙袋に貼られたテープを丁寧に剥がすその仕種があまりにいつも通りすぎて、まるでこの先もずっと、こんな毎日が続くのではないか、なんて。淡い期待が頭を掠める。そんなこと、あるわけがないのに。
こんなに否定を重ねて、自分で抱いた期待を打ち消して。今俺はどんな顔をしているだろうか。
ちゃんと笑えているだろうか。
ちゃんと鉄火を、直視できているだろうか。
約束は、守らなくてはいけない。
鉄火が、一生治らない病気にかかっていると知ったのは八月の頭のことだ。
一生治らない病気。
そして、その『一生』があとどれくらいの時間なのか。
暑かったあの日。
病院で。
鉄火の母さんに、打ち明けられた。
本人には黙っておいてほしい、と。涙を零しながら。
その事実を知っているのは、俺と、兄貴とデュエルと。…鉄火の特別である、ニクスだけだ。
そして約束をした。
『鉄火がいつまでも笑っていられるように、俺達は道化になろう』、と。
俺達よりも早くその事実を知っていたらしいニクスは、眉一つ動かさずにそう言った。辛くないはずが、なかったろうに。
ニクスがどんなに鉄火を大事にしていたかは、周知の事実だったから。きっと、いや絶対。鉄火がいなくなるなんてこと、認めたくなかっただろうに。
ああ、なのに、なんで。
「慧〜靂?どした、怖い顔してるぞ?」
まるで小さい時から大切にしてきた宝物を抱くように、たった400円の漫画を抱きしめる鉄火が俺の顔を覗きこんでくる。あと一ヶ月しか生きられないんだよ、と告げたら、コイツはこんなちっぽけな、漫画なんかでこんな風に喜んだりしなくなるのだろうか。
だったら俺はコイツに何を送ればいい。大切な親友に。掛け替えのない鉄火に。
考えた。
考えて、決めた。
それが、これだった。
「ん、ああ、悪い悪い。…今日は漫画以外にも渡すものがあってだなー」
パイプ椅子を嫌ったアイツが、デュエルに買わせた木の丸い椅子に腰をかける。ファンシーなプリントの入った座布団のおかげで、存外悪くない座り心地だった。
バックから取り出したのは色気のない白い封筒。
宛名も切手もない、手紙。
「お、手紙!ラブレターかっ!」
手紙=ラブレターという思考がコイツしいというか。ほほう、と鼻を鳴らして腕を組む鉄火。視線が手紙にくぎづけなあたり、やはりコイツらしい。
お前にだよ、と付け足して手紙を差し出すと、鉄火は一瞬目を丸くして、それを受け取った。
大切な宝物を扱うように慎重に、丁寧に。封をする簡素なシールを剥がし、中からこれまた真っ白い便箋を取り出す。枚数は、一枚だけ。
「…うっわ、英語じゃねーかこれ!えーと、ふぁっつ?ふぇー、やー?」
頭を傾げたり、便箋を上下逆にしながら唸り声を上げる鉄火。そんなことしたって読めるはずもないのに、と、思わず笑ってしまう。
真っ白い便箋に、黒い英文。
鉄火には読めない手紙。
よまなくていいんだよ、よめなくていいんだ。…なんて、意地悪な手紙。
ああ。親友が熱心にそれを読もうとしているというのに、俺はなんて淡泊で冷静で、こんなにもさめきって、諦めきった気持ちを抱いているのだろうか。こんな気持ちになるならいっそ、俺もみんなのように、鉄火の寿命のことを知らされないままにしてほしかった。そしたらきっと、俺だって、素直に親友の隣で笑ってやれたろうに。
「…んと。これ、誰から?」
ひとしきり眺めた後、どうやらお手上げな様子の鉄火が、唇をへの字にまげながら言う。
何も知らない瞳は、英文を映したままだった。
俺は口を開く。
一度口を閉じた後、もう一度、開いて。
「ニクスからだよ。預かってきたんだ。」
言った。言えた、言った。
ニクスの名前を出した途端、鉄火は瞳を丸くして紙面を凝視する。そして、撫でる。
指の先で、愛おしむように、少しだけ、切な気に眉を潜めて。
きっと。鉄火には読めないだろう言葉で綴られたニクスからの手紙。
一ヶ月前まで、毎日のようにこの病院に通っていたあいつの、手紙。
しばしの沈黙の後、鉄火がぼやく。
「読めねーじゃんか、こんなのっ、うう。」
英語が苦手な鉄火には、きっと意味不明な古文書のように見えたのだろう。眉間にこれ以上ないくらいにシワを寄せて、頭を抱えながら。
悶えるように唸って、溜息をはいた。その溜息の意味を、俺は知らない。
「会ってその口から聞かせてほしいって伝えといてくれよなっ!」
鉄火がくれた送り文句がリピートされる。何度も何度も、何度も、何度も。
そうさせてやれたら、と考えて、やめた。
だってそれは、あまりに残酷な現実だったから。
病室を出た俺を待っていたのは、寂しいような、悲しいような微笑みを浮かべた兄貴だった。
「今日もきてたのか。」
「うん。」
扉一枚隔てた病室に、病室の鉄火には絶対に聞こえない声量で、兄貴は言う。俺も、答える。
「…最期まで、アイツは俺の親友だから。」
「…そうだな。」
兄貴は穏やかに笑う。
どうしようもない悲しみを隠すように、穏やかに。
俺もこんな風に笑う日がいつかくるのだろうか。
大切な、大切な親友を失った、兄貴のように。
九月二十三日。
鉄火が入院して二ヶ月たった日。
ニクスが亡くなって、一ヶ月たった日。
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091011 千鶴