「頑張っとんなあ」


後ろからの声に振り返る。音がしなかったということは、開けっ放しだった後ろのドアから入って来たんだろう。
聞き慣れた声と関西弁。振り返らなくても、誰かはわかるのだけど。


「…忍足、部活は?」
「早めに終わってん。で、これ」
「忘れ物?」


自分の机から紺色のノートを取り出した忍足を見やる。私の問いに忍足が小さく頷いたのを確認して、珍しいねと言葉を返した。忍足が忘れ物なんて珍しい。というか、色々と計算外だ。


「勉強しとるん?」
「うん、だって受験生だし」
「偉いなあ」
「私は推薦なんて狙えないし、それに頑張んなきゃ内部試験パスできないからね」


知られたくなかったなあ、と思った。忍足には、知られたくなかった。
理由は自分でもよくわからないけど、テニスで確実に推薦とれるから妬んでるとか、勉強もできるから馬鹿にされそうとか、そういうのじゃないことぐらいはわかる。
強いて言うなら、忍足に置いていかれたくない気持ちがあったからかもしれない。まだ高校までなら、しがみついていられる。だけどしがみつこうと足掻く姿は見せたくない。
だから人の目につきやすい図書室はやめて、テニス部の練習がない水曜を避けて教室で勉強していたのに。


「高等部行くことにしたんやな」
「うん」
「で、勉強と」
「だってこうしなきゃ忍足と同じとこ行けないじゃん」


冗談みたいに笑ってやる。さよか、と忍足も笑って返してくれる。
決して忍足を追い掛けて高等部に進むわけじゃないし、忍足の進路を聞く前からうっすらと氷帝高等部に行こうかなとは思っていたのだ。だけど明確な目的があるわけでもない。
きっと忍足は、またあのメンバーで全国を狙うために高等部へ進むんだろう。そりゃあ勉強だってするだろうけど、でもそういう目的があるってことが羨ましい。私にはそれがない。
だけど忍足が側にいる学校生活は気に入っていて、だから追い掛けてるんだって言われればそうなのかもしれない。誰もそんなことを言う人はいないけど。私と同じようになんとなくで高等部に進む人も、なんだかんだでたくさんいるのだ。


「まだ帰らんの?」
「ん、もうちょっと残る」
「そか、邪魔してもうて悪かったな」
「ううん、全然」


ひらひらと手を振る忍足の足元から影がのびる。長くて黒い、太陽の色を閉じ込めた教室と正反対の色が、フローリングの床に揺れた。
開きっ放しだったドアをカラカラとご丁寧に閉め、忍足が教室から出ていく。ドアが完全に閉まるのとほぼ同時に力が抜けて、私は広げていたノートの上に倒れこんだ。


「…続き、やろ」


何も考えたくなくて、私はシャーペンを握りなおす。問題集のページを一枚めくって、整然と並んだ活字と数式に意識を集中させた。



可能不可能

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