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梅野紫苑の幼少期、家にはよく小学生になったばかりの兄の友人が遊びに来ていた。リビングには、二つの黒いランドセルが転がっている。宿題をする兄の隣で『蓮ちゃん』『蓮ちゃん』って兄を可愛がるように名前を呼ぶ男の子。いつ見てもにこにこと嬉しそうに笑いながら兄にくっついている。
変なの、お兄ちゃんは男の子なのに。
兄の名をちゃん付けで呼び、兄にべたべたくっついている朝倉すばるを、幼少期のあたしは変なものを見る目で見ていた。
あたしが小学生になった頃には、いつの間にか兄のことを『蓮』って呼び捨てで呼ぶようになっていた朝倉すばる。それでも相変わらず兄にべたべたくっついている。部屋に妹のあたしが居てもお構いなし。
『しおんの家に来ないで!あっち行って!』
あたしは朝倉すばるがお兄ちゃんにべたべたくっついている光景を目にするのが不愉快で、お兄ちゃんがトイレに行っている間にそんな言葉をすばるに向けると、『やだよ〜べ〜』って舌を出された。
いじわるな人!だいっきらい!!
ムカつくすばるの私物である筆記用具やノートをすばるに向かって投げつけると、『何すんだよ!やめろよ!』って言いながら『ペシン!』と頭を叩かれた。
そこでお兄ちゃんがトイレから戻ってきて、あたしはお兄ちゃんの前で泣き喚いた。『すばるに頭叩かれた〜!痛いよ〜!』ってすばるを指差しながら訴えた。
するとすばるは目を涙でうるうるさせながら『違うよ、しおんちゃんが先に俺にひどいこと言ってきたからだよ、あっち行ってって言われて、俺の筆箱投げてきたんだよ』ってお兄ちゃんに説明している。
どうせ嘘泣きだろ、って子供ながらに思ったあたしは、すばるの言動ひとつひとつが気に食わなくて、あたしの方がガチ泣きしながらすばるを叩いた。
そんなあたしのことがすばるにはポカポカと叩く動作をするおもちゃに似ているように見えたみたいで、『俺んちにあるおもちゃみたい』って笑っていた。
すばるが家に来るたびにあたしはすばるに突っかかり、情けないことにあたしはいつも返り討ちにあう。
あたしにとって兄の友人、朝倉すばるは、言わずもがな幼少期から憎らしくて憎らしくてしょうがない存在だったのだ。
兄が小学生の高学年になった頃、あたしと兄それぞれに一人部屋を与えられた。そのおかげで兄が家にすばるを連れてきてもあたしはすばるに会わずに済んだ。
でもばったり会ってしまえば睨み付け、小学校でも姿を見たら睨み付け、あたしの中ではひっそりとすばるとの間に長い冷戦を続けていた。
兄が中学生になった頃、兄の部屋から気持ち悪い会話が聞こえてきた。
『蓮可愛い〜、チューしたい。』
『…え。』
大人しい性格の兄は、そんなすばるの言葉に固まっているようだ。
『ねぇ、チューしちゃダメ?』
『えぇ…?』
ダメに決まってんだろが、と心の中で吐き捨てるあたしだが、その後二人がどういうやり取りをしたのかまでは分からなかった。
すばるが帰ってからの兄の様子をこっそり観察してみるが、何を考えてるのか分からない。機嫌が良いのかも悪いのかも分からない。いつも通り大人しく、無表情だ。
お兄ちゃんもしかしてさっきすばるにキスされた?
そんなふうにストレートに聞けてしまえば多少スッキリもするのだが、兄との間に気まずい空気が流れそうな気がして聞けなかった。
あっという間に時は流れ、あたしは中学生になった。兄とすばるは中学三年。勉強が少し難しくなり、憂鬱が続く中学校生活だ。新しく友達ができてまあまあ楽しくも過ごしていたのだが、そんな日常であたしは突如不穏な噂を耳にした。
『そう言えば三年にめちゃくちゃかっこいい先輩居るよね〜!』
『あ、知ってる!朝倉先輩でしょ?うちらの学年に居る朝倉のお兄ちゃんだよ!』
女の子同士の会話で登場してきた“朝倉”という名にピクリと耳が反応した。朝倉すばるのことを一度も“かっこいい”なんて思ったことのないあたしは少し耳を疑ったが、どうやら彼女たちは“朝倉すばる”の話をしているようだ。
続けてあたしと小学校から同じだった友人が『紫苑のお兄ちゃんと仲良いよね!』なんて話してくる。あたしは思わず無愛想に『うん』と頷いてしまった。
不本意ながら、兄とすばるは傍から見たら凄く仲が良い。いつも一緒に居るし、兄なんて友達は朝倉すばるしか居ないんじゃないか?と思うほど。
そこまでの会話はまあまだ良かったのだが、不穏な噂というのはここからだ。
『朝倉先輩、紫苑のお兄ちゃんにベタ惚れらしいよ〜、なんか学校でもふざけてキスとかしたんだって!この前部活の先輩が話してるの聞こえちゃった。』
彼女たちはそんな噂話に笑っていたが、あたしは勿論そんな話に笑えるはずもなく。昔から嫌いだった朝倉すばるに、さらに嫌悪感を抱いた瞬間だった。
ずっとあたしの中ですばると冷戦を続けていたのだが、そろそろ腹立たしくてしょうがなくなり、あたしは中学生になってから一度だけすばるに喧嘩を売ったことがある。
すばるが一人で居るところは滅多に見たことがないのだが、その時は告白でもされていたのか放課後体育館横のひっそりとした通路から出てくるところを偶然目撃した。
あたしは帰宅しようと校門に向かう足を方向転換させ、持っていた体操着の手提げ鞄をすばるに向けてぶん投げながら突撃する。
『うおっ!?びっくりした!!…誰かと思ったら紫苑ちゃんかよ。いきなりなに?危ないなぁ。』
すばるはあたしの手提げ鞄を胸元でキャッチしたため、文句を言いながらそれをあたしに返却してきた。
『あんたお兄ちゃんに手出してるでしょ?キモイんですけど。いい加減やめてよ。』
『蓮がそう言ってたの?』
『お兄ちゃんが言ってたんじゃなくてあたしが見てて不愉快なの!』
『え?なにが不愉快?俺べつに紫苑になんも見せてなくね?』
『キモイ噂があたしの耳に入ってくるの!』
『キモイ噂?例えば?』
『あんたがお兄ちゃんにベタ惚れだとかキスしたとか!そういう噂があたしの耳にも入ってくるのが不快なんだってば!』
あたしはすばるの手から奪い取った手提げ鞄でバシバシとすばるの身体を攻撃しながらそう言ったが、やっぱりすばるがあたしの言動にダメージなど受けることも無く、『あはは』と笑ってきた。
そして、『それはね、紫苑ちゃんのお兄ちゃんが可愛いすぎるのが悪いんだよ?』って言いながら人を小馬鹿にするようにあたしの頭の上にガシッと手を乗せてきて、グイッと後方に押し返される。……ムカつく!嫌い!
この歳になっても昔からまったく変わらず返り討ちにされ、あたしは悔しくて悔しくてちょっとだけ涙が出た。
唇を噛みながらすばるを睨みつけるあたしにすばるは『つーかお前は昔から可愛くねえな』って吐き捨てて、あたしの額にデコピンでもするつもりなのか手を伸ばしてくる。
デコピンなんてされてたまるかとバシッとその手を手提げ鞄で叩き落とすと、『いったぁい!』と女のような上擦った気持ち悪い声を出しながらわざとらしく手を痛がってきた。
何をしても返される言動が腹立たしくて、あたしはもうそれ以降、一切すばるを視界に入れないように努力した。
友達や周りの女子たちは皆口を揃えて『朝倉先輩かっこいい』って言ってるけど、あたしにとっては今も昔もずっと変わらず、“かっこいい”なんて少しも思ったことはなく、気に食わなくて大嫌いな奴だった。
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