凍るような雨の中、なんとか男を家に引きずり込んだ。濡れたままの身体を慎重にソファに横たえて、タオルを何枚かとりにいく。
 一枚は熱いお湯に浸してよく水気を切った。とりあえず、最初に汚れた顔を吹いてあげる。
「人形みたいだ」
 あまりにその容貌が整っているものだから、思わずことばに漏らしてしまった。少し気まずくなるけれど、どうせ聞こえてはいないのだ。
 それから、迷った末に袴の帯に手をかけた。やはり濡れたものを着ているのは良くない。これでは体温が下がる一方だ。
「失礼します、ね」
 小さく呟いて、帯を解く。瞬間、思いがけず声にならない悲鳴を零した。鍛え抜かれたその身体には、普通の生活を送っていたら到底つくことのないような、無数の切り傷が刻まれていたのだ。
 それだけでも恐怖だというのに、極めつけは懐に隠されていた短刀。懐刀とでもいうのだろうか、ずっしりと重く、現実味のないそれに手が震えた。
 なにか、危険な匂いを感じずにはいられない。しかし、今さら嘆いても仕方がなかった。家に上げてしまった以上、彼が目を覚ますまでは面倒を見なければ。無責任なのはよろしくない。

 気を取り直し、懐刀はテーブルの上へ一旦避難させる。冷静になってみれば、男の人の身体を見るのなんて中学校のプールの授業以来だ。他意はないけれど、変にどきどきしてしまう。
 傷だらけの上半身を綺麗にしたあと、下の袴を脱がす。驚くことにその下は褌だった。随分と時代錯誤な人だ。和装に拘りがある人なのだろうか。
 長い、ほどよく筋肉のついた足を暖かいタオルで清めつつ、彼の腰回りにバスタオルを巻く。ごめんなさい、とこころの中で謝罪をして、褌をほどいた。
 一通り綺麗になった身体に毛布をかけて、様子を見ることにする。生憎、男物の服は持ち合わせていないのだ。

 ふ、と一息ついて、彼から剥ぎ取った袴や褌を家にある一番大きな桶に放り込んだ。和服は洗濯機で洗えない。当たり障りのない液体洗剤を入れて、じゃぶじゃぶとぬるま湯で押し洗いをした。
 見ず知らずの人にここまでやる人はなかなかいないんじゃないだろうか、なんて人知れず苦笑した。
 洗ったそれらを暖炉の傍に、火が燃え移らない程度の距離をとって干す。男の眠りは存外深いようで、下着まで取られたというのにまったく起きる気配を見せない。その寝顔はどことなく、まだ少年のあどけなさが残っていた。
「よく寝るなあ」
 暖炉の火だけがパチパチと音を立てる。ひとり暮らしをするとひとり言が多くなるんだってね、なんて云ったのは誰だっただろうか。

 隻眼のお客さまが目を覚ましたときのために、チャウダーでも作ろうとキッチンへ向かった。冷えてしまった身体が温まるよう、冬の野菜をたっぷり使う。
 あとは煮詰めるだけの段階になったところで、別の小さな鍋に牛乳だけを開けた。沸騰する直前まで温めて、砂糖を入れ、甘いホットミルクを作る。これは自分のため。
 愛用のマグカップに移したそれを持って暖炉の傍まで戻った。チェアに揺られながらホットミルクを飲むときほど幸せな時間はない。温かな空間は何にも変えがたい大切なものだ。
 その日、ソファに横たわる彼が目を覚ますことはなかった。

 朝、いつも通りに起床して、カーテンを開ける。予想通りの大雪だ。塵のような白が灰色の空にひらひらと舞っている。
 コーヒーを傍らにトーストをかじっていると、視界の端でなにかがうごめいた。例のお客さまである。
 トーストをお皿に置いて、ソファまで近寄る。そっと覗き込めば、眩しそうにその隻眼が開いた。
「起きました?」
 できるだけはっきりと、やさしく問う。彼は数度、ゆるりと瞬きを繰り返してから、その身を重たそうに起こした。
「ここは……?」
 少し掠れた、思っていたよりも幾分か低い声が云う。私は暖炉の傍に干していた彼の衣類が、ちゃんと乾いていることを確認してから手渡した。
「私の家ですよ」
「……オレは城にいたはずだが」
 Thank youとやけに滑らかな英語を発音しながら彼は袴を受け取る。
「あなた、この近くで倒れていたんです。意識がないようだったから、運び込ませてもらいました」
「そう、か……」
 記憶を漁っているのか、どこかうつろな返事だ。袴に袖を通しながらしばらく沈黙したあと、ところで、と彼は再び口を開いた。
「ここは日ノ本なのか?」
 その隻眼はぐるりともの珍しそうに辺りを見回す。
「火の元? 確かに、暖炉のすぐ傍ですけど」
「その火の元じゃねえ」
 決してとぼけたつもりではなかったのだけれど、呆れたように一蹴されてしまった。しかし本気でなんのことを云っているのか判らなかったのだ。
 それからすぐに日本のことだと気付いたものの、当たり前のことすぎて、どうして彼がそんなことを訊くのか疑問でならなかった。
「日本か、と訊いているのなら、そうですよ」
「ニホン?」
「え? はい。ジャパンです」
「アンタ、南蛮語が話せるのか」
 その物云いに私は少し驚いた。英語のことを南蛮語、と形容する人を初めて見たのだ。それに、ジャパンだなんて英語を話せるうちに入らない、と私は考えている。
 けれど、彼の瞳は至って真面目で、ふざけているようには思えないのが、ますます可笑しい。
「あなたこそ、面白いことばを使うんですね」
「Ah...?」
「あ、別に馬鹿にしているわけではなくて。その、あなたの云う『城』はどこにあるんですか?」
「奥州だ」
 彼の口から飛び出た答えに、首を傾げつつオウシュウという響きを反復する。質問攻めで申し訳ないと思いつつも、意味を確かめるため素直に尋ねた。
「ヨーロッパの、欧州ですか?」
「No」
「じゃあ、陸奥の国の、奥州?」
「That's right」
 流暢に云い放った彼のことばに、不思議な気持ちがもやもやと胸をたゆたう。どうもさっきから、根本的なところが噛み合っていないように思えた。
「えっと……私、ゆきめって云います。失礼ですが、あなたのお名前は?」
「米沢城主、伊達政宗だ」
 一瞬、時が止まったのではないかと錯覚した。
 信じられない。けれど、信じたいと思う気持ちがどこかにあるのも確かで。だって、これほど非日常的な衝撃が、今までにあっただろうか。
 宝くじを当てたときの何倍もの高揚感が身体を駆け巡る。
「それは、素敵なお客さまだ」
 普通なら、なに云ってるんだろうこの人、と見切るところであるが、なぜか彼が嘘をついているようには思えなかったのだ。僅かに見開かれた隻眼に、私は初めてこころから笑って見せた。
「とりあえず、温かいものでも食べましょうか」
 袴をきっちり着て頂いてから、テーブルに案内する。これがchairか、と椅子に驚く彼に、私のほうがびっくりだった。
 初めて椅子を見ただなんて、よほど和を尊重するお家のお坊っちゃまでさえそんなことはないと思いたい。
 それならば、やっぱり彼はそうなのだろう。不思議と、そんな確信めいた気持ちがあった。




底冷えの頃

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