階下へ降りると、政宗くんはパンケーキづくりの支度を始めていた。薄力粉にベーキングパウダー、卵、砂糖など必要なものが並べられている。
「あと、なにが必要だ?」
 ボウルを棚から取り出しながら、政宗くんが振り返って訊いた。
「バターミルクパンケーキなのだから、バターミルクかな」
「Where is it」
「それが、ないんだ」
「はあ?」
 盛大に顔をしかめられる。日本では手に入りづらいうえ、滅多に使わないのだからそればかりは仕方がない。
「牛乳とヨーグルトで代用するといいよ」
「できんのか」
「なかなかそれらしくなるよ」
「OK, milkとyogurtな」
 冷蔵庫へ向かう政宗くんの背中をしり目に、私もエブロンを締めて手を洗った。
「……ねえ、政宗くん」
「どうした?」
 牛乳瓶を手にしたまま、隻眼がこちらに向く。私はそれで満足して、ボウルに卵を割った。
「なんでもない、呼んでみただけ」
「なんだ、そりゃ」
 呆れたよう零すと、彼はまた冷蔵庫の奥に右手を突っ込む。ヨーグルトは下段手前にあるというのに。
「あ、そうだ。パンケーキ、何枚重ねる?」
「六枚」
「じゃあ、卵ももうふたつ」
「ヨーグルトどこだ、ゆきめ」
「きみの左手のすぐ傍」
 右目がない政宗くんは、だからこそ視界の右側ばかりに意識がいってしまうのだろう。左目を下方に向けて眉をひそめる彼はひどく神妙げだった。

 六枚ずつ焼いて重ねた小さなパンケーキタワーに、最後はバターを乗せてメイプルシロップをかける。傍らにはカットした果物を添えたものの、できあがったそれは至ってシンプルだった。もちろん逃げ出すこともない。
「午後はなにをしようか」
 柔らかな生地にナイフを差し込みながら訊ねる。
「すでに八つ時だがな」
「まだ八つ時だよ」
「冬の昼下がりは短い」
 四分の一に切ったパンケーキを頬張ると、政宗くんは小さく、甘い、と呟いた。
「じゃあ、散歩にでも行こう」
「行ってこいよ」
「きみといっしょじゃないと、意味がないのだけれど」
 口に運ぼうとしたフォークを寸でのところ留める。市場へと降りて以来、政宗くんはあまり外へと出たがらなくなった。塞ぎこんでいるわけではないものの、どこか変なのはたしかだ。
「それなら、掃除でもしよう」
「掃除?」
「暖炉を綺麗にしたいと思っていたから」
 火の入っていないそれに、目を向ける。朝晩はまだ寒いけれど、日中は膝掛けがあればこと足りるようになってきていた。
「掃除って、まだ使うだろ」
「使ったって、べつにいいんだ」
「また汚れるだろ」
「構わないよ。夏が過ぎて、秋になって、また使う頃が来たら掃除するから」
 パンケーキは残り二段になっていた。冬が終わって、春になって、それでも、政宗くんは私の傍に居るのだろうか。
 居ないのだろう。
 なんの根拠もなかったけれど、そんな風に思えた。冬は戦がない、と政宗くんは云ったけれど、それは、春になればまた戦になるということだ。
 政宗くんだって、帰らなければならないことを知っている。
 だから、すこしでもいまを長く感じるために眠ることを拒む。まるで現実から逃げるように童話を読み漁っては、むしろ生々しいまでの現実を痛感して自分を傷つける。そして、春の訪れから目を背けるかのごとく外へ出るのを嫌う。
 そんな政宗くんが、私は心底、愛しいと思うのだった。

 パンケーキを最後の一枚まで食べ終えて、食器を片付けたら暖炉掃除に取り掛かる。
 火室の網棚を外して洗って、燃え尽きた灰も先に取り除いた。それから、屋根へ上って煙突口からワイヤーブラシを落とすのだけれど、それは政宗くんがやってくれるという。
「外に出たくないんじゃなかったの?」
「べつに、出歩くわけでもねえし」
 ワイヤーブラシを手にとって、それに、と彼はつづける。
「高いところは好きなんでな」
 にっ、と笑って、玄関から外へと出ていく。しばらくすると、ゆきめ、と暖炉から声が響いてきた。半身を火室に入れて上を見上げると、遠く、四角く切り取られた煙突口から政宗くんがこちらを覗き込んでいる。
「ブラシ降ろすぞ」
「どうぞ」
 急いで身体を引っ込め、暖炉の傍を離れる。ほどなくして、ぱらぱら、という音とともに煤とすこしのクレオソートが降ってきた。
 ブラシをひと通り往復させると、政宗くんは戻ってきた。煤だらけになったワイヤーブラシの洗浄は私が請け負う。あとは火室と、ここから手が届く範囲までの煙突の内壁を柄付きブラシで徹底的に掃除する。
「汚れるかもしれないけど、だいじょうぶ?」
「No problem」
 柄付きブラシを手に、政宗くんは屈んで暖炉へ身を入れた。がしがし、とブラシで煙突の内側をこする音がする。
 こういうとき、ひとりでは大変なだけの作業も、政宗くんとなら楽しいとさえ思えるのだから、不思議だ。その背中に、ありがとう、と胸のうちで小さく呟く。私は彼が居ることで、生活でも多くの部分で救われているのだ。

 掃除を終えて、煙突から出てきた政宗くんは案の定まっ黒になっていた。煤だらけの顔を、濡らしたタオルで丁寧に拭っていく。
「綺麗な顔が台無しだね」
「……それは嫌味か?」
「いいえ」
 私はきみを綺麗だと思っているよ、と、頬の汚れをできる限りやさしく拭きとりながら答える。政宗くんは左目を微かに細めた。
「なあ、ゆきめ」
「どうしたの?」
「冬はもう、終わるのか」
 遠い声だった。自分の在るべき時代に想いを馳せているのだと、すぐに気づく。
「そうだね。もう、雪も溶けてしまったし」
「……そうか」
「随分、浮かない顔をするね」
「気のせいだろ」
 不貞腐れたように目線を逸らして、政宗くんはそう零した。私は最後に、彼のスッと通った鼻筋を拭ってから、立ち上がる。
「きょうは早めにお風呂を沸かすからね」
「Thank you」
「こちらこそ、ありがとう。助かったよ」
 さっきは声に出さなかった、そのことば。改めて口にすると、どこか気恥ずかしく感じた。そして政宗くんもまた、すこし面映ゆげに返してくれる。
「You're welcome」
 その、照れたような表情が、胸をくすぐった。
 近いうちに訪れるだろう別れのことを、否応なしに考えさせられる。いまこの時に執着してしまう前に、政宗くんのためにも、私のためにも、それは早い方がいいのだと、先ほどまでの会話を顧みても思った。
 それから、私はこころに決める。その時が来たら、私は全力で政宗くんの手を引こう。過去への扉へ、その背を押してあげよう。躊躇する暇など、与えないように。迷う隙など、見つからないように。




灰猫の憂鬱

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