朝、目を覚まして窓を開ける。凍りつくような空気が肺いっぱいに流れ込んできた。きょうも雪が降っている。
窓を閉めて1階へ降りる途中、とてもいいにおいがすることに気づいた。キッチンを覗くとわたしのエプロンを着た政宗くんが立っていた。
「……政宗くん?」
寝起きでぼやけた声で呼びかける。
「Good morning, ゆきめ」
「おはよう。なに、つくってるの?」
「breakfastに決まってんだろ」
「ああ、そう」
「勝手に借りたぜ」
エプロンの裾を摘まんで政宗くんが振り返る。カントリーチックなパッチワークのエプロンは、見目の整った彼にはいささか可愛すぎた。
「アンタも食べるだろ」
「じゃあ、いただこうかな」
「これでも料理はたしなむほうなんだ」
「それは楽しみ」
いつになく機嫌がいいらしい政宗くんは、いつになくよく喋った。
『小十郎』のつくった野菜で味噌汁をつくるのが好きだとか、そういえば野菜を漬けるのもなかなかうまいのだとか、たまに足軽兵たちに料理を振る舞うのだとか。とにかく、めずらしく自分のことについて話した。
私は楽しそうに、けれど静かな調子で紡がれる政宗くんのことばひとつひとつに相槌を打った。呼吸の音さえ聴き漏らさないように耳を澄ました。
政宗くんがもと居た時代のことを、私の知らない政宗くん自身のことを話してくれることが嬉しかった。彼のことを知れば知るほど、500年という時間が生み出すどうしようもない溝を埋めていけるような気がするのだ。
「できたぜ」
政宗くんは満足げにコンロの火を止める。テーブルに置かれていたコルクの鍋敷きに土鍋が運ばれてきた。中にはぐつぐつとおいしそうな音を立てているミルク色の雑炊。
「野菜と鶏肉を使わせてもらった」
云いながら、政宗くんが蓮華で別皿に取り分けてくれる。掬うたびにふわりと白い湯気が濃くなった。
「Dig in」
「ありがとう、いただきます」
召し上がれ、と英語で発音する政宗くんにお礼を告げてから蓮華を手に取る。ひと口分をそっと掬うと、やさしい匂いがあたたかに鼻腔へと広がった。ふうふうと少し冷ましてから口に含めば、やはり、匂いと変わらないやさしい味がした。
「どうだ?」
「おいしいよ、とても。野菜と鶏肉の味がよく染み出てる」
「そうか、よかった」
じっと私の反応を窺うようにこちらを見ていた政宗くんが、ほっとしたように表情を緩めた。うなずくと、政宗くんも同じように食べ始める。
舌を火傷しないようにひと口ずつゆっくりと蓮華を運んでいくと、喉を通った乳白色の熱が首から胸、お腹までじんわりと温めていくのがわかった。自分以外のひとがつくった料理を食べるのはとてもひさしぶりだ。
「本当、料理上手なんだね」
「まあな。それなりだろ」
「けれど、よくキッチンの使い方がわかったね。材料もそうだけれど」
「いつも見ていれば、覚えるさ」
なんでもない風に云って、政宗くんは雑炊を音をたてずに啜った。料理中、政宗くんがよく覗きにくるのは知っていたけれど、コンロやレンジの使い方や、戦国時代にはないであろう食材の調理の仕方なんかを観察していたとは思いもしなかった。見ただけで覚えられる、というのにも驚きだ。私はなにも教えていないのに。
目を丸くしているのであろう私の表情を見ると、政宗くんはおかしそうにくつりと笑った。ずいぶんと気を赦したような笑顔だった。
土鍋のなかをゆっくりとふたりで空にした。つくってくれたお礼に後片付けは私がすることに決める。食器を洗っているあいだ、政宗くんはずっと私の手元を覗き込んでいた。顎を私の肩に乗せて、後ろから覆い被さるようにして。きょうは一体どうしたというのだろう。
「政宗くんは英語……えっと、南蛮語? が、好きなの?」
そのままの状態で話しかけてみる。
「そうだな。興味がある」
耳もとに答えが返ってくる。一音一音紡がれるたびに政宗くんの顎が動くので、肩や首のあたりがくすぐったい。
「じゃあ、洋書なんて少しは退屈しのぎになるのかな」
「洋書?」
「そう、洋書」
泡だらけの取り皿や蓮華を濯いで、窓際の水切り棚に立てかける。蛇口を捻って水を止め、あかぎれにならないように濡れた手をタオルでよく拭いた。
「南蛮語で書かれた本だよ。おいで」
ハンドクリームを手に塗り込んでから、政宗くんを連れて屋根裏へとつづく階段を上がっていく。トン、トン、と小気味好く鳴るいつもよりひとり分多い足音に、床板が軋む音もこころなしか大きい気がした。
部屋の扉を押し上げようとしたところで、おい、と政宗くんが短く制止した。
「ここ、ゆきめの寝室だろ。オレが入っていいのか」
振り返ると、政宗くんは2段下からどこか戸惑うような視線をこちらに送っていた。いつもは高い位置にある彼の顔が私の目線よりも低いところにあって、自然と見上げられるかたちになる。私はふと首を捻った。
「なにを、いまさら」
上がったことあるでしょう、と何日か前の記憶を掘り起こして訊ねる。布団を干した、晴れた日だ。しかし、政宗くんは居心地悪そうに目を伏せると、がしがしと頭を掻いた。
「いや、まあ、そうなんだが。その……なんだ、あの時のオレは配慮に欠けていたというか」
「配慮?」
「一応、女の寝室だろ」
こころなしか頬を染めて、政宗くんが呟く。それこそいまさら、どうしてそんなことを意識しているのか。その瞳は相変わらず床に向けられていて、無性に彼を抱きしめたくなった。それをこらえて髪を撫でるだけに留める。
「かまわないよ。政宗くんがよければ、だけれど」
「いや、オレはいいんだが」
「それなら、だいじょうぶ」
あくまでも一定の距離をはかろうとしているのか、私の領域に踏み込むことを遠慮しているのか、それはわからないけれど、とりあえず私はいつもより丁寧な動作で扉を押し上げた。
「どうぞ、入って」
自分が上がってから、そう声をかける。一瞬、躊躇うように視線を揺らめかせたあと、政宗くんもゆっくりと上がってきた。
「……天井が低いな」
「屋根の裏、だからね」
ここにあるのは眠るためのベッドと、小さなベッドサイドテーブルと、たくさんの本が詰まった本棚だけだった。政宗くんの云うとおり天井が低いため、本棚は横に長く連なっている。
「見てみてよ。いろいろあると思うから」
本棚から適当な洋書を取り出して、手渡してみる。洋書は分厚く重いものもあれば、薄い絵本のようなものまであった。英語だけでなく、ドイツ語やフランス語で書かれたものもある。ほとんどが大学でつかった文献であったり、本棚を埋めるために貰ったり買ったりした古本たちだった。
「すげえな」
パラパラと英語の本をめくりながら政宗くんがつぶやく。
「こういう書ばかりなのか、ここの本棚は」
「ちゃんと和書もあるよ。もっと早く云えばよかったね」
「Don't worry, thanks」
そのことばどおりさほど気にしていないのだろう、するりと滑らかに発音すると、政宗くんはそのまま本の世界へ入り込んでいってしまった。ひとつだけしかないトパーズ色の瞳が真剣に英文だけを追って動いている。
私はなるべく音を立てないようにして開いたままだった扉から階段へと足を降ろした。そこにある本はどれでも好きなように読んでいいよ、なんて声をかけようか迷ったけれど、水を差すといけないのでそのまま下へ降りることにした。
本を何冊か抱えた政宗くんがリビングへと降りてきたのは、時計の長針があれから2周した頃だった。よほど寒かったのか背中が丸まっている。
「いつの間にこっちに降りてきてたんだ?」
ソファの上、毛布にくるまりながら政宗くんが訊ねる。その手は持ち出した本を開こうとしているところだった。
「政宗くんが読み出してすぐ、降りてきたよ」
「声をかけてくれりゃあよかったのに」
「邪魔をしたらいけないと思って」
私が居なくなったことにも、屋根裏が寒いことにも気づかずに本を読み耽っていたのは政宗くんだ。それにもかかわらず、彼は私へ不機嫌そうな視線をよこすのだった。
「たくさん読んだらいいよ。お昼ごはんができたら、ちゃんと声をかけるから」
そのトパーズから逃れたくて、私は背を向けてキッチンへと足を向ける。あんな瞳で見られると、ごめんね、なんて謝ってその艶のある黒髪をぐしゃぐしゃと撫でまわしたくなるのだ。
だって、あれではまるで好きな子に置いていかれて機嫌を損ねる少年である。
年相応な表情をちゃんと政宗くんは持っていた。晴れた日の草花の匂いが漂ってきそうな、危うい均衡を必死で保とうとするような、そんな頃の顔。
先ほどのことと云い、いまと云い、私はどうやら彼にだいぶ絆されてしまっているらしい。振り返りたくなるのを我慢して、キッチンの戸棚から鍋を取り出す。きょうのお昼ごはんはあつあつのニョッキにしよう。手軽でいい。
ふと窓の外を覗くと、雪は雨に変わっていた。もしかしたらあしたには晴れるかも知れない、なんてしばらく見ていない青空を思い浮かべながら、水を張った鍋に大きめのじゃがいもをふたつ放り込んだ。
風花の栞
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