元服の儀が終わったその日の夜、宴も盛大に行われた。夜が更けていくにつれ、酔い潰れる者がひとり、またひとりと増える。しまいには自然と開きというかたちになり、俺もほろ酔いの心地好い気分のなか自室へと戻った。
障子を開け放ち、夜風にあたる。冷たく頬を撫でていく空気は酒で火照った身体をいい具合に落ち着かせてくれた。空を仰げば霞みなく星が広がっていて、月のひかりのみでも充分に明るい。行灯を点ける必要はなさそうだ。
「弁丸様」
それはもう今日で捨てたはずの響きだった。なんの前触れもなく背後に降りた影に、胸の奥では鼓動を早めながらも顔をしかめつつ振り返る。
「もう弁丸ではないのだ、紅子」
不満は声にも表れた。
「あ……、失礼致しました。つい」
本当に無意識だったのか、紅子の表情は忍らしくない間の抜けたものだった。いつまでも子どものままではないのだ、わざとではないにしても気持ちのよいものではない。そんな思いが顔に出てしまっていたらしい。
「そのようにご立腹なさらないで下さい」
「なっ、怒ってなどおらぬ……!」
「ほら、怒っているではないですか」
くつりと喉もとで押し殺すようにして笑う紅子は俺にはとても余裕があるように映った。佐助もそうだが、俺はいつだってこの差を感じずにはいられない。もう紅子とも佐助とも同じ、成人になったというのに。
「幸村様」
急に静かな声で名を呼ばれる。思いもかけず心の臓がびくりと跳ねた。紅子の呼ぶ俺の新しい名は、他の誰とも違う特別な音を持っていた。
「紅子は、嬉しゅうございます」
「……紅子?」
「こんなにご立派になられて、ことばもございません」
「どうしたのだ、いきなり」
改まった調子がどうもむず痒い。紅子はいつものように感情を押し留めたまま、わずかにその闇色の瞳を伏せた。
「これからもどうか、お傍に」
思わず目を瞠る。彼女の口から斯様なことばが紡がれるとは考えもしなかったのだ。淡々とした声音からはその意図を読み取ることもできず、
「なにを申すか、当たり前にござろう」
そう返すことしかできなかった。
俺がもっと強ければ、彼女をあのような目に遭わさずに済んだのに。そう、十年経った今でも後悔することがある。
利き腕を失くしたも同然の傷を負った紅子は、それでも俺の傍についていてくれた。これは俺のわがままのせいであって、実際、当時の紅子がどう思っていたのかは俺には想像もつかない。戦場には出られずとも、諜報活動程度ならば支障はない。紅子はそう云って、下女でも構わないと告げた俺のことばに甘えることもなく自ら真田の情報網として今も働いている。
下女でも構わぬ、などと、思えば忍として生きてきた彼女には失礼なことを云ってしまったと反省している。しかし、その気持ちはいまでも変わらなかった。どんなかたちでもいい、紅子には傍にいてほしい。主従というひとつの垣根を越えてそう思っている自分がいる。それには彼女も少なからず気付いているはずだ。
「なにか、不安なことがあるのか?」
俺なりに考えを巡らせてはみたものの、口をついて出たのはそんなことばだった。紅子はなにも云わない。微妙な距離感がもどかしく思えて、俺は跪く彼女の傍まで近寄った。
「申せ、紅子」
自分も膝を折って目線を合わせる。ふと紅子の花のようなかすかな香りが鼻の奥を掠めて、こんな状況だというのに、意志とは無関係に心拍が上がった。
「幸村様を直接お守りできないことが、歯痒くて仕方ないのです」
ゆるりと彼女の瞳が俺を映した。罪悪感にも似た感情がじわじわと胸を浸食する。
「いつか、必要とされなくなるのではないかと、考えてしまう」
「紅子、」
「私を頼ってくれた頃の弁丸様はもういない。そう思うと、幸村様が私にはとても遠くに感じるのです」
悲痛な叫びだった。
同時に、どうしてそのようなことを思うのか理解できなかった。忍ゆえの考えなのかもしれぬが、元より俺は忍を「使い捨ての道具」などとは考えておらぬし、それは彼女もほかの忍たちも充分わきまえているはずだというのに。
「俺がもっと強ければ、紅子は腕を失わずともよかった」
外から入ってきた、ひんやりとした風が髪をさらった。気を飛ばした紅子を引きずって泣きながら歩いたあの日を思い出す。城に戻った頃にはもうとっくに日は沈んでいて、今夜のような冷たい風がひりひりと身に染みた。才蔵の驚愕に満ちた表情も鮮明に覚えている。
「俺がもっと強ければ、紅子を守り、戦うことができたのだ」
「……幸村様」
「もう弁丸はいない。先ほど、紅子はそう申したな」
「……はい」
「その通りなのだ。もうあの頃の弁丸はおらぬ」
弱くて泣き虫だった弁丸は、もう捨てた。そして、
「今度は、俺が紅子を守る番だ」
もうあのような苦痛は味わいたくない。切にそう思う。大切な者が目の前で傷つくところなど、もう二度と見たくないと。その一心で辛い鍛練を自らに課し、今まで二槍を奮ってきたのだ。
意表をつかれたといった様子の紅子は、しばらくはただ唖然と俺に目を向けているのみだった。
「……やはり、私は果報者です」
少しして零された声はか細く、危うく聞き逃してしまいそうになる。彼女はこんなにも華奢だっただろうか。
「幸村様にお仕えできて、私……っ」
息を呑む音が耳もとで聴こえた。抱きしめずにはいられなかった。心の臓は情けなく早鐘を打つし、顔はひどく熱いゆえきっとまっ赤だろう。それでも、彼女をこの腕に閉じこめずにはいられなかったのだ。
「そうであろう」
いつかのように、自信をもってそう返す。
「俺はもう、紅子をおぶって城に連れ帰ることもできるのだ」
紅子が笑うのがわかった。耳がくすぐったい。彼女は俺が思っていたよりも随分と小さかった。こうして難なく腕を回してその身体を受け止めることもできる。
「ずっと俺の傍にいてはくれぬか、紅子」
「断る道理など、ありませぬ」
「うむ、今さら確認することでもあるまい。しかしまた不安になるようなことがあれば、何度でも云うぞ」
これだけはずっと変わらない。今までも、そしてこれからも、俺には紅子が必要なのだ。いつかこの想いが実ればいい。本当の意味を知ってくれる時がくればいい。
「俺の傍にいろ、紅子」
これは命令だ、背くことは赦さぬ。あの頃とまったく同じ科白を、彼女の鼓膜に刻み付けるように紡いだ。
「こころ得ました」
紅子もまた、潤む声でそう答えた。
あとがきに代えて、
子ども扱いは
もう終わり
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