錆び付いた鉄製の階段は、一段上がるたびにカンカンと独特な音を鳴らす。インターホンに手が届く前に、目的の扉は開かれた。
「やっぱり、名前ちゃんだった」
 ことばどおり、確信を得て満足げな声が迎えてくれる。
「いらっしゃい、待ってたよ」
 そうすることがさも自然であるように、佐助はわたしを招き入れた。ひとつの連絡もなく突然訪ねたというのに。
 しかしながら、こちらもそのつもりであったので、お邪魔します、と小さく断ってからわたしは部屋へ踏み入れた。
「どうしてわかったの? わたしが来たって」
「名前ちゃんのことならなんでもわかるよ」
「そういう誤魔化しは嫌い」
「誤魔化しているわけじゃないんだけどなあ」
 佐助は、困ったようにその橙色の髪を掻いた。
「でも、そうだな、いまのは、足音で」
 俺様は名前ちゃんの足音ならすぐ聴き分けられちゃうんだぜ、なんて、自慢にもならないことを堂々とつづける。
「……莫迦みたい」
「へへ、照れてんの? かーわい」
「ちがうっ!」
 へらりと相貌を崩す佐助をしり目に、ソファベッドへ身を沈める。ひとり暮らしならば充分な広さの部屋。相変わらず、無駄なものはほとんどない。ここに住む本人そのものみたいに。
「名前ちゃんが来る前にさ、パウンドケーキつくったの。食べる?」
 素直じゃないわたしの態度など気にした様子もなく、佐助が訊ねた。訊ねながら、うなずく以外の答えは予想していないらしく、狭いキッチンに引っ込んでいく。
 その背中に、できるだけはっきりと呼びかけた。
「佐助、要らない」
 中型冷蔵庫の扉に掛けられた手がぴたりと止まる。
「お腹空いてないとか?」
「そういうわけじゃないけど。幸村くんにでもあげて」
「どうしちゃったの。名前ちゃん、旦那に負けず劣らず甘いものが好きじゃない」
 キッチンから離れると、佐助はわたしの隣に腰を下ろす。なだめるように頭をゆっくりと撫でられて、わたしは顔をしかめるしかなかった。
「佐助のつくるお菓子は甘すぎるもの」
「そう? 味には結構、自信あるんだけどなあ」
 知っている。たとえ佐助に自信がなくとも、それはわたしが胸を張って公言できる。佐助のつくるお菓子は、本当にどれも美味しい。
 しかしながら、いまここで甘んじるわけにはいかなかった。
「……だいたい、きょう来るとも云ってないのに、どうしてそんなのつくってるの」
「そりゃあもう、きょうあたり来るかな、って思ったから。来なくても、あした学校で渡せるしね」
「なら、あした幸村くんにあげて」
「だめだよ。旦那は洋酒が入ってるのは食べられないし、それに、だったらもっと甘くしなくちゃ。量も足りない。あれは、名前ちゃん用のレシピでつくったの」
 料理中にレシピなんて見ないくせに。胸のうちで、小さく毒づく。
 佐助は、一度つくったものはもとより、ふとテレビや雑誌で見たものも、実際につくって、そのときに誰かからもらった感想も、ぜんぶ頭で憶えているのだ。
 わたし好みの味も、においも、ぜんぶ。
「ね、名前ちゃん。なにかあったの?」
 なにも云えなくなってしまったわたしの髪を、佐助はやさしく撫でつづける。骨ばった、無駄のない綺麗な手だ。
 だって、と零れた声はとても情けなく響いた。
「ダイエット中なの」
 数秒の沈黙ののち、笑われるかと思ったが、佐助はきょとんと首を傾げるだけだった。
「ダイエット? なんでまた」
「……わたしのことなら、なんでもわかるんでしょう」
「うーん、そうだなあ」
 白々しく間延びした返事をして、佐助はゆっくりとわたしをソファベッドに押し倒す。
「もうすぐ、夏だから、とか? 太ったようには思えないけど」
「ちょ、ちょっと、どこを触ってるの!」
 脇腹のあたりを撫でられて、そのくすぐったさに身をよじる。いろんな気持ちがない混ぜになって、じわりと目じりに涙が浮いた。いったい何のつもりなのか。
「俺様、名前ちゃんはいまのままがいいな」
 今度は二の腕に触れたかと思うと、ゆるゆると下降していって、手を握られる。首筋に口付けが落とされ、耳もとにそっと囁かれる。
「俺様にないものを、名前ちゃんはたくさんもってる。そのなかに無駄なものなんて、ひとつもないよ」
 ずるい、と思った。佐助はずるい。いつも、わたしの欲しいことばをくれる。たしかに、彼はわたしのことを誰よりも、ときにはわたし以上にわかっているのだ。
 余裕のある彼の瞳には、余裕のないわたしが映る。顔ごと、目を逸らした。
「……脂肪は、無駄だと思うけど」
「俺様は柔らかいほうがいいな。この、触り心地の好さったら、ね」
「莫迦!」
 太股を這い始めた手をひっぱたく。いてて、なんて漏らしながら、佐助はすこしも痛そうじゃない。おまけに、心底うれしそうに笑うのだ。
「でも、気持ちは本当にうれしいよ。俺様のためにがんばってくれる名前ちゃん、すっごくかわいい」
「さっ、佐助のためなんかじゃなくて、これはべつに、わたしが、」
「あ、照れてる、かわいい」
「うるさいっ!」
 佐助を押し退けて身を起こそうとすると、逆に引き寄せられてしまった。そのまま、わざとらしくリップ音を立ててキスされる。
「ね、ケーキ、食べるでしょ」
「……た、食べる」
「じゃあ、持ってくるね」
 ソファベッドを離れる佐助の背中を、目線だけで送りながらうなずいて、火照った顔を気づかれないように頬杖で隠した。




彼女のためのケーキには洋酒が数滴落とされる
御題:ありささま
甘々、ツンデレ、ダイエット

20120708
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