休日における登校日というのは、どうにも気が抜けがちになる。それが例え終業式であったとしても、だ。
敗因はひとつ。目覚まし時計を休日のままの設定にしていたこと。携帯には橙色の髪が特徴的な友人から、何通ものメールと着信があった。いつもいっしょに登校しているから無理もないけれど、いささか過保護すぎるのではないかと思う。
ともあれ、そんな、心配性の何度めかの着信により眠りから目覚めた私は、寝癖を直すのもそこそこに家を飛び出したのだった。
冷えた朝の空気を吸い込みながら、通学路を駆け抜ける。学校へとまっ直ぐにつづく桜並木に差し掛かれば校舎は目と鼻の先だ。
けれど、あとすこし、というところで、私は思わず足を止めた。止めずにはいられなかった。
まだ七分咲きの桜を見上げる、端整な横顔。
見慣れた制服を纏うそのひとは、しかし見覚えのない顔だった。陽に透けた綺麗な黒髪が、さらさらと春を含んだ風に靡く。その凛とした佇まいに、ひと言で云えば、私は見蕩れてしまったのだ。
「オレの顔がそんなに珍しいかい」
見目によく似合う低く艶のある声に、どこか揶揄うような色を滲ませて、黒髪のひとは云った。正面を向いた彼の右目は眼帯で覆われていたけれど、その精巧さは損なわれない。むしろ、それがまた何とも云えない儚さのようなものを醸し出しているのだった。
「いえ、あの、」
私は立ち尽くしたまま、云い訳を考えた。
「終業式、始まってるのに、いいのかな、と……」
まったくもって私が云えたことではないけれど、足を止める理由には充分だ。だって、こんな時間に同じ学校の生徒が居るのはおかしい。卒業式だって二週間前に終わっているのだから、先輩というわけでもないだろう。
すると彼は、私の疑問に合点がいったというふうに、一度ゆっくりと瞬きをした。
「ああ、いいんだ。正式に云えば、オレはまだこの学校の生徒じゃない」
「え? でも、制服……」
「これは一応、形式的に着て来ただけでな。入学は春になってからだ。その確認の手続きを、ついさっき終わらせてきた」
要するに、彼は春からこの学校の生徒になる、いわゆる転入生ということらしい。珍しいこともあるものだ。
「じゃあ、きみのことを知っている生徒は、まだ私だけってことなのかな」
「そうなるだろうな。この学校の生徒に会ったのは、オレもアンタが初めてだ」
「なんだか、うれしいなあ」
つい、本音が零れた。慌てて口を噤むも、後の祭りだ。しかし目の前の彼は、すこし不思議そうに首を傾げるのみだった。
「うれしい?」
怪訝な声に、私はうなずくことにした。
「うれしいよ」
「なにが、うれしいんだ」
「きみがこれから通うこの学校で、初めて会話を交わした記念すべきひとりめになれたこと」
誰かの新しい生活の始めに、こうして偶然にも関われたことが、うれしい、と感じるのだ。
「……そうかい」
「うん。たとえ、四月にはきみがすっかり忘れてしまっていたとしてもね」
私はきっと憶えているだろう。こんなに存在感をもったひとを、忘れられるはずがない。すると、彼は唐突に左腕の時計に目をやった。
「で、いいのか。終業式なんだろ」
「あっ、そう、そうだった」
唐突に焦りが蘇る。思いがけない巡り合わせに、急いでいたことさえすっかり意識の外へ飛んでいたらしい。私のあまりの慌て振りに、くつり、と彼が喉を鳴らした。ああ、こんな笑い方をするひとなのだな、と、ひとつ、なにも知らない彼のことを知る。
「えっと、きみ、」
「伊達政宗だ。アンタは?」
「苗字名前、です」
「名前、ね」
ぽん、と頭に大きな手が乗せられる。驚いて見上げれば、細められた左目と視線がかち合った。
「I'm glad I could meet you too」
「えっ、な、なに?」
「I will remember you every time I see the cherry blossoms」
唐突に紡がれた流暢な英語。ほとんど聞き取れず、私は首を捻るしかない。けれども、伊達くんはその口の端に笑みを浮かべるだけだ。
「Goodbye, I'm looking forward to seeing you again」
そのまま、ひらりと手を振って学校とは反対のほうへと歩いていってしまう。
さよなら、またあなたに会えるのを楽しみにしています。
今度は理解できた、別れのことば。
「あの!」
その背中に向かって、思いきり叫んだ。
「また会う頃には、この桜、満開になってると思うよ!」
伊達くんの、桜の木を見上げていた横顔を思い出す。ささやかな花見を、そういえば私が邪魔してしまったのだ。
「I hope so」
軽やかな音色だった。伊達くんは振り向かない。私も彼に背を向けて、校舎までの道を駆け出す。
咲き誇った桜がひらひらと舞う頃には、帰国子女だというその転入生を、新しい教室で待つ私がいるのだろう。
再会を桜蕾に願って
御題:薪さま
終業式、桜、出会い
2012.05.22