名前のきょう一日を俺様に頂戴。
 そう云って、佐助は本当に一日中わたしを連れまわした。朝食はわたしの家に始まり(つまり、いきなり押しかけてきたのだ)、なぜか何年も前に卒業した高校を訪れ、昼食に近くのパン屋さんでパンを買い食いし、いつかも行った覚えのある隣県の水族館へと彼の愛車を走らせ、館内を隅々までめぐりイルカショーを堪能したあとは、いままで入ったこともないようなお洒落なレストランで夕食となった。
「ホワイトデーだからさ」
 佐助が云う。
「なにかプレゼントしたかったんだけど、このくらいしか思いつかなかったんだよね」
「このくらい、って、充分だよ。すごくうれしい」
「そう? ならよかった」
 はにかむように笑うと、車を運転する佐助はわたしと同じワインではなくノンアルコールのシャンパンもどきを煽った。こくり、と上下する彼の喉仏をぼうっと眺める。その喉仏が、やはり上下しながら音を紡いだ。
「俺様はさ、いつだって名前に楽しんでいてほしいんだよね」
 橙色の髪が揺れる。佐助といっしょなら、それだけでわたしは楽しいよ。そう返そうとして、けれど、声が出なかった。
「笑っていてほしい、と思う。その理由に俺様がなれるのなら、どんなことだってしたい」
 あんまり佐助がやさしく笑うから、返すことばをわたしは失ったのだ。
「そろそろ行こうか」
「どこへ?」
「ん、お楽しみ」
 悪戯っぽくウィンクを投げて寄越すと、佐助は半ば放心気味のわたしを置いて席を立つ。そのまま店を出て行く佐助を、わたしは慌てて追いかけた。いったいいつの間に会計を済ませたのだろう。疑問に思えど、口にするのは憚られた。
 いつもそうなのだ。佐助はそういう現実的な部分からわたしを遠ざけようとする。綺麗で、夢みたいなものだけをわたしに見せようとしてくれる。
 スラリと背の高い細身の背中は、常にわたしをあらゆるものから守ってくれていた。

 お楽しみ、と佐助が云ったそこは、なんの変哲もない彼自身の部屋だった。ひとり暮らしの小さなアパート。しかしわたしにとっては彼のこの部屋が一等落ち着く場所でもあったので、きらきらした場所から一変したこの空気に、ほっと力を抜いたのだった。
「とりあえず、楽にしててよ」
「もうしてる」
「うん。予定どおりいけば、これでこの部屋とももうお別れだからね」
「へえ、お別れ……えっ、お別れ?」
 それはどういうことなのだろう。クッションに沈めていた顔を上げるも、電気をつけていない部屋では佐助の表情をよく捉えることができなかった。月灯かりが差し込む薄暗がりのなか、小さなテーブルの上に佇むデジタル時計だけがその文字盤を浮かび上がらせている。
 三月十四日、午後二十三時五十二分。
 もうすぐ、日付が変わろうとしていた。
「名前」
 テーブルを挟んで向き合う、佐助のやわらかい声が耳を撫でた。
「きょう一日、俺様に付き合ってくれてありがとう」
「なに、どうしたの?」
「とりあえずホワイトデーの終わりに、プレゼントがあるんだけど」
 云いながら、なにか書類をテーブルに広げる。窓から降りそそぐ仄かな光が用紙も文字も青白く照らし出した。
「ねえ、これ、」
「必要な箇所はぜんぶ記入してあるから、あとは名前が届出人の欄に署名してくれればいい」
 夫になる人、猿飛佐助。
 妻になる人、苗字名前。
 それは紛れもなく婚姻届だった。
「そうしてくれるならこのアパートは引き払って、ふたりで暮らせる部屋を、ふたりで決めようと思うんだけど」
 とても現実的な話をしているのに、わたしはなにか夢でも見ているような心地でそれを聴いていた。
「苗字名前さん、俺の、猿飛佐助の妻になってください、ってな」
 途中までは真剣そのものだったのに最後だけはおどけてみせて、佐助はわたしの左手をとる。そんな佐助の様子にどこかほっとすると同時に、ようやくいまが夢などではないことを理解した。
「返事は?」
「……よろこんで」
 彼の空いているほうの手のひらには、まるで手品のように知らぬ間に指輪が収まっていた。すっと薬指が重くなる。そうかと思えば、その手を引かれ、くちびるに触れるだけのキスが落とされた。
「それって、きょう一日だけじゃなくて、名前のこれからの人生すべて俺様にあげるってことだよ」
「知ってる。その代わりに、わたしは佐助のこれからの人生をもらうよ」
 きょうだって、わたしが佐助の一日をもらったのだ。
 どんなときも佐助がわたしを迎えに来てくれる。そうだった。ふたりが出逢ったのは高校時代で、たくさん寄り道をして、遊んで、同じ時を過ごして、同じものを食べて、同じものを見るようになった。そして同じように笑って、惹かれて、好きになって。水族館は初めてデートした場所で。そうして最後は、いつだって新しいものをひとつもらって、やはり佐助のもとに帰り着く。
「うん、ぜんぶあげる。しあわせにするよ」
 デジタル時計にゼロが並ぶ。三月十五日。佐助にあげたわたしの人生と、わたしがもらった佐助の人生が、ふたりの日常に折り重なった瞬間だった。




深夜零時の回帰線
御題:池宮さま
深夜、プロポーズ、ホワイトデー

2012.03.26
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