身体が重い。ひどく疲れていた。
 新社会人としていまの会社に入社して早二ヶ月。残業なんて日常茶飯事、果ては休日返上の連勤つづきと、文字通り休む暇もない。きょうも帰宅は日付を跨いだ頃となった。
「ただいま」
 鍵を開けて部屋に入る。リビングには間接照明がついていて、四角い空間の輪郭をぼんやりとやわらかく照らしていた。
「お帰りなさいませ!」
 ふいに飛んできた声に私は驚いた。無邪気な笑みで出迎えてくれたのは、まるで人懐こい大型犬のような少年。後ろで括ったひと房の髪が尻尾みたいに揺れている。
「起きていたの、幸村」
「はい。風呂も沸いておりますぞ」
 なんて世話も焼いてくれるが、これでも立派な戦国武将であるらしい。春一番の吹く少々荒れた日、なんの気なしに開けた窓から飛び込んできたのだった。
 思い返せば衝撃的な出逢いだった。よみがえった記憶に頬が緩む。
「うん、お風呂いただこうかな」
「なにか可笑しゅうございましたか?」
「ううん、なにも」
 はぐらかす私に不満そうに口を噤むも、それ以上は訊ねてこない。私は幸村のこういうところが好きだった。躾のよく行き届いた、利口な男の子だ。

 お風呂はちょうどいい湯加減だった。温まった身体でリビングに向かうと、その真ん中、ソファの上でこくりこくりと船を漕ぐ幸村が居た。
 冷蔵庫からいつも置いてある缶チューハイを取り出して、彼の隣に腰を降ろす。幸村の眠る横顔を見ながら、プルタブを開けてちびちびとそれを飲んだ。なんとも至福のひとときだ。
 かくん、と幸村がうなずくたび、大きな目を縁取る睫毛が震えている。私は幸村の前髪を除けて、ゆるやかな弧を描く額に唇で軽く触れた。それから、ちょっとだけまた彼を眺めて、私は満足した。
「幸村、こんなところで寝たら風邪を引くよ」
 空になった缶をテーブルに置き、見た目よりもずっと逞しい肩をゆする。無防備な喉がかすかに動いて、うう、と掠れた声が零れ出た。
「名前、殿……?」
「起きて。布団で寝よう、幸村」
「もう、お上がりで、」
「うん。気持ちよかった、ありがとう」
「なれば、ようございました」
 暗がりのなかで、幸村の声はよく広がった。まだ半分眠っているような彼の声は、夢のなかをたゆたうみたいだ。疲れているせいか、私まで起きているのか眠っているのかわからなくなってしまいそうだった。
「もうお眠りになられまするか、」
 しきりに目を瞬かせて幸村は問う。そうするつもり、と答えると、すこししゅんとした様子で、そうでしたか、と微笑む。
「どうかしたの?」
 ぼやぼやと寝惚けている幸村の腕をとって立たせ、寝室まで引いてつれていく。
 そもそも、幸村がこんな時間まで布団に入っていないことが珍しい。彼の居たのは、日の沈むとともに眠り、日の出とともに目を醒ますような時代だ。
「……待っていようと、思うておりましたのに」
 落ち込んだ声がすとんと落ちた。されるがまま私に腕を引かれる幸村は、たどたどしい足音を立てる。
「名前殿はいつもお帰りが遅く、最近ではお休みもとられぬゆえ、せめて、湯浴みのあとの酒飲みにお付き合いしたいと」
 なれど、先に寝てしまい申した。申し訳なさそうにそう告白する。
 けれども、私の心はそのことばだけで内側からふわふわと温かくなるのだった。身体の至るところに張り付いていた疲れが、口に入れた瞬間のチョコレートみたいに甘く溶けていく。
「申し訳ござらぬ」
「ううん、充分だよ」
 謝る幸村へ、私は首を横に振る。
「ありがとう、うれしい」
 それから、おいで、と彼をそのまま私のベッドに連れ込んで、栗色の柔らかい髪をわしゃわしゃと撫で回す。
「うう……な、なにを、」
「かわいいなあと、思って」
「某は、武人にござる、ぞ」
 眠たげな瞳で主張されても、やはりかわいいだけなのだった。丸い頬に手のひらを充てれば、ますますとろんと目蓋が落ちる。
「幸村は知らないと思うけど」
「はい……?」
「仕事から帰ってきたら、私はまず眠っている幸村の顔を覗きに行くんだよ」
「なにゆえ、そのような、」
「幸村の寝顔、見てるだけで癒されるから」
 だから、きょうは間近で見せてね。手のひらで頬を挟んだまま、こつん、と額を合わせる。幸村はうなずく代わりか一度だけ緩慢な瞬きをして、そのまま寝息を立て始めた。
 私は目の前の幼い顔を見ながら、とても安心な気分になる。どこにも行ってほしくないな、と思う。きっと叶うことはないけれど、胸のなかで呟くだけなら許されるだろう。

 あしたはきっと絶叫から始まる朝となるに違いない。幸村のかすかな息づかいを聴いて微睡みながら、それを想像してひとり笑みを零す。
 寝惚けていた彼は自分がすんなりと私のベッドまで入り込んだことをすっかり忘れて、破廉恥だ、と飛び起きるはずなのだ。




輪郭の溶けだす頃
御題:きよさま
深夜、疲れ、癒し

2013.06.11
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