校舎の裏口からつづく、古びた外付け階段。その狭い踊り場で、放課後、彼女はときどき絵を描いている。帰り際、裏庭を横切るとき、その様子を見上げることができるのだった。
きょうも体育座りをした、その立てた両膝にスケッチブックを寄りかからせて、真剣になにかを描き込んでいた。時折眩しそうに目を細めては、何度も空を仰ぐ。そのたびに、小さな頭には不釣り合いな、重たそうなヘッドフォンが後ろにずれていた。
「ねえ、なに描いてるの、名前ちゃん」
邪魔をしては悪いからと、いつもなら素通りするところを、階段を上がって話しかけてみる。名前ちゃんは突然俺様が目の前に立ったことにびっくりしたのか、慌ててスケッチブックを抱えて飛び退いた。
「わっ、さ、佐助くん! ごめん、邪魔だよね」
ヘッドフォンを外しながらわたわたと謝る。俺様のことばはどうやら聴こえていなかったようだ。
「違う違う、描いてていいって」
「えっ、えっと……」
「なに描いてるの、って訊いたの」
改めて質問すれば、彼女は恥ずかしそうにすこし俯いた。外されて首に掛けられたヘッドフォンから、微かに音が漏れている。
「……きょうは、空を、」
空を描いているのだ、とたっぷり数秒をつかって呟かれた答えは、すぐに宙へ溶け消えた。なるほど、だから空を見上げていたのか。
「隣いい?」
「い、いいけど、見ないでね」
「えっ、見せてよ」
「……じゃあ、描いている途中は恥ずかしいから、出来上がったら」
「うん、いいよ」
ふたたび腰を下ろす彼女のその隣に、と思ったが、隣だとスケッチブックが目に入ってしまうので、背中合わせに座ることにした。お邪魔します、なんて改まって、ぴたりと背中をくっつける。
「音楽、聴いてたんだろ? 聴いててもいいよ」
ヘッドフォンからは未だに曲が零れつづけている。聴き憶えのあるメロディーは、俺様も好きでよく聴く曲だった。
「ううん、いいよ。佐助くんと話してるほうがいい」
「そう?」
「そう」
背中越しの振動で名前ちゃんがうなずいたのがわかる。でも、音楽聴きながら絵を描くのが好きなんでしょ、と訊くと、無音より色が浮かぶから、と返ってきた。
「その絵に物語ができる、って、いうのかな。空も、青だけじゃないから、ところどころに差し色を使うのだけど、例えば、悲しい空だったら紫とか、楽しい空だったら黄色や橙色、とかって、わたしは選んでいくんだ」
彼女は、絵のこととなると途端に饒舌になる。絵を描くのがこころから好きなのだと、そんな気持ちがことばの端々から溢れ出すようだった。
「じゃあさ、俺様と話してたら、この空にはどんな色が使われるの?」
「えっ、それは、そうだなあ……」
戸惑うような声が背後で響く。俺様は頭上を見上げてみた。こつん、と後頭部が彼女の頭にぶつかる。
きょうの空は抜けたような青に、もこもことひつじ雲が泳いでいる。これが、いまの彼女の瞳には、どんな色に映るというのだろう。
「佐助くんと居ると、空の色もよくわからないや」
しばらくして、名前ちゃんはぽつりと云った。今度は長い間、ふたりの背中の重なったあたりにその声は留まっていた。
「それ、どういう意味?」
「……いろんな色が浮かぶの。楽しいし、うれしいけど、でも、なんか、」
「なに?」
「は、恥ずかしいし、苦しいし、切なくなる」
空から目を外して、思わず振り返った。反対に、俯きがちな彼女の手には、何本もの色鉛筆が握られている。視界に入ったスケッチブックの空は、さまざまな色がせめぎ合い、なおも淡く鮮やかだった。
「俺様も、いまの科白に心臓がぎゅっとなっちゃったよ」
「……び、びっくりさせて、ごめんね」
「いやいや、そうじゃなくて」
不安そうに、彼女もこちらを振り返る。肩越しに合わせた視線が近くて、不覚にもどきまぎとすこし焦った。
「そうじゃなくってさ、ときめいちゃったんだけど、って、話」
潤んだようにも見える瞳が、瞬きを数度繰り返す。そんな、驚いた様子がひどくかわいいものだから、なんとなく直視できなくなって目線を逸らした。
「その絵、俺様がもらってもいい?」
「もっ、もうすぐできるから、待ってて」
「うん、待ってるよ」
またいそいそと作業に戻る名前ちゃんを背中に感じて、頬が緩む。この目に映るきょうの空は、きらきらと眩しく澄みきっている。
オパールのひつじ
御題:七瀬さま
ヘッドフォン、空、スケッチブック
20120730