帰りの電車の中、猿飛くんと別れてから幸村はひと言も声を発しなかった。こころなしか気配も薄くなっている気がして、このまま消えてしまうのではないかとさえ、思う。
「幸村」
小さく名を呼べばうなだれていた頭をゆっくりと上げてくれた。苦々しげに微笑まれ、胸の奥がキリ、と小さく軋む。
数秒の間、沈黙が続いた。呼んでみたは良いものの、こういう時、一体どんなことばをかければいいのか判らない。私はつくづく気の利かない女の子だ。
どうしたものかと、目線だけ幸村から窓の外に移す。風のように流れていく風景は、隣に幸村がいるだけで今までのそれとは違って見えた。
幸村が呟く。
「佐助は今も昔も嘘吐きだ」
視線の先は私と同じ、窓の外。切なげに目を細めてまるで独り言のように。ただ私にはその意味が判らなかった。
「猿飛くん、嘘なんか吐いてた?」
「いや……何でも御座らぬ。忘れて下され」
「……そう」
幸村が何でもないと云うなら、そうなのだろう。けれど、歯切れの悪い幸村に違和感を感じるのは確かだった。
私は猿飛くんのことなどはそれほど気にならないのだ。しかし、現に彼は落ち込んでいる。私の知らないところで、猿飛くんは幸村に嘘を吐いたのかもしれない。
私が気になって仕方がないのは、他でもない、幸村なのだ。
「……幸村」
「如何致した」
「私は、絶対に嘘を吐かない」
「名前殿……?」
「約束するよ。私は幸村にだけは嘘を吐かない」
きょとんと固まってしまった幸村の眼前に私は小指を突き出す。
「何で御座ろう?」
「指切り」
「ゆび……今なんと!?」
「え? 指切り」
知らない? と問う私に幸村はぎょっと目を見開いた。あ、だとか、えっと、だとか。視線も定まらなければ、とにかく、ことばにもなっていない。もしかしてまた、実際に触れることが出来ないから戸惑っているのかとも思ったけれど、そうではないようだった。
「そ、その……指を切る必要などは、ありませぬ」
「は?」
「そそそのようなことをしなくともっ、名前殿が嘘を吐くとは思っておらぬゆえ!」
小指を差し出したままの手を優しく包まれる。もちろん、ぎゅっとされるような感触はない。それでも温かな空気を感じることだけは出来た。彼の体温が、心地好い。
「某は、名前殿の痛がる姿など、見たくはありませぬ」
あまりに真剣に云うものだから、理解するのに少々時間がかかってしまった。どうやら幸村は私が本当に指を切り落とすとでも思ったらしい。たとえ幸村に頼まれたってそんな痛いこと、おそらく私はしない。
「違うよ幸村。本当に切るんじゃないの。小指出して」
「……へ? こ、こうで御座るか?」
「うん」
恐る恐る差し出された、決して触れることの出来ない小指に、自分の小指を絡ませる。幸村も小指の関節を折ってそれに応じてくれた。私のものよりも骨張っている長いそれに、幸村の男の子な面を見る。
指切りげんまん、嘘吐いたら針千本のーます。指、切った。
ことば通り絡ませた指を離した。こんなことをしたのは幼い頃以来で、気恥ずかしくてついつい笑いが漏れる。幸村は怪訝そうに眉間に皺を寄せた。
「約束を破ったら、針を千本も呑むと?」
「ことば遊びだよ。昔からある童歌」
わらべうた。そう、童歌。
「やはり、『ゆびきり』の元は指切りであろうか」
「どういう意味?」
「某の頃の時代では、遊郭の遊女が小指の第一関節を自ら切り落とし、好いた男に本当に愛しているという意味を込めて贈る、という風習があったと聞いている。それを指切り、と」
色んな男と関係を持つ遊女が、ひとりの男だけを愛すると心に決め、その証に。聞くだけでひどく痛い、健気な話だ。幸村も戸惑うはずである。
けれど、少し顔を赤く染めながらも話してくれたそれに、私は感動すら覚えた。男の人のほうも相当な覚悟が必要だったはずだ。なんたって、愛しい人の小指を貰うのだから。
「某は実際に見たことも、まっましてや、ゆゆゆ遊郭など……っ」
ぐるぐると目を回して慌てる幸村に、思わず笑ってしまった。良かった、いつもの幸村に戻ってくれた。
「そういうことだからさ」
「へ、あ……」
「私は嘘を吐かない。もちろん、針千本呑むつもりも毛頭ない」
「う、うむ」
「だからさ、」
大きな目がさらに見開かれる。当たり前だ。幽霊の彼に、救いを求める彼に云うことじゃない。そんなことは判っていたのに、流れ出ることばを止めることが出来なかった。それでも、幸村は困ったように笑んでただ頷いてくれた。今はそれだけで充分だ。
──まだ、どこにも行かないで。
なんて。どうしてそんなことを云ってしまったのか、自分でも判らなかった。
さくり、指切った。
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