ジリリリリ、不愉快な甲高い音で目が覚めた。一体、昨夜は何時に眠ったのだったか。音の根源を止めるべく手を泳がせるが、なかなか目覚まし時計らしきものに触れられない。いつもはこの辺りにあるのだけれど。
重たい瞼を擦り、目を開ければ、信じ難い光景が飛び込んできた。
「ちょ、ちょっと、何してるの!」
思わず朝から大声を出してしまった。くらりと視界が揺れる。目覚まし時計は昨日の夜現れた幽霊、もとい真田くんの手にあった。
だが、その姿は気を抜くと見逃してしまいそうなほどに薄くて、激しく存在を主張し続ける目覚まし時計だけが異質に浮いているように見えた。いや、異質なのは真田くんのほうなのか。
「す、すみませぬ! このからくりの音はい、いかがして止めるのであろうか……!」
彼はというと、その目覚まし時計の音にびっくりしているらしい。無理もない。彼の時間は400年前のいつかで止まっているのだから。
「いい、いいから、貸して」
ボタンを押し込んでスイッチを消す。たったこれだけで良いというのに。
「おおっ! お見事で御座る!」
「……」
つい数時間前のことを思い出す。大阪へ旅行した際に私に憑いた戦国武将、真田幸村。今日から彼といっしょに過ごすのだ。そう納得している自分になんだか笑える。
「ご飯は食べるの?」
「い、いや! 某はその……肉体が存在しない故、つ、疲れもしなければ腹も減らぬのだ」
「そっか」
幽霊に心配ごとなど無用らしい。それにしてもさっきから彼は挙動不審すぎる。どこまでも変わった幽霊だ。まじまじと見つめていると、目が合った。
「あ、あの……」
「うん?」
「名前を、き、訊いてもよろしいだろうか」
その問いに私はもう一度眠る前の出来事を思い返す。昨夜の私はどうやら彼の名前を訊いておいて、自分は名乗らなかったらしい。
「これはとんだ失礼を」
「い、いや……!」
「名前でいいよ」
「名前殿に御座るか。素敵なお名前だ」
「ありがとう」
ごく自然に、笑みが零れた。真田くんも少し笑う。こうして見ると本当に端整な顔立ちのをしている。しかしその表情は突如不安に揺れる。
「その、名前殿は、本当に某を迷惑だとは思ってはいないのだろうか……?」
「迷惑?」
「それに……き、気持ち悪い、などとは」
しどろもどろにことばを紡ぐ彼はまるで子どものように拒絶を恐れている。今までどれほど、孤独に現世を彷徨ってきたのだろうか。
「そんなこと、答えるまでもないけど」
「や、やはりそうであったか……! 昨夜、何か物を投げつけられた時に薄々気付いてはいたのだが……」
「え、いやそうじゃなくて」
「この様なゆ、幽霊などという得体の知れぬ者っ……!」
私のことばをイエスと捕らえてしまったらしい真田くんは、顔を真っ青にしてぶつぶつとひとり、葛藤していた。けれど、そうか。彼は私がドライヤーを投げつけたことや、怯えていたことを気にしていたのか。
自らを「得体の知れぬ者」と形容するくらいに、彼は今の自分自身さえ恐ろしいのだろう。そう思うと云いようもない切なさや苦しさが込み上げる。
考えてみれば、当たり前のことだ。誰だって、物を投げつけられたり、眼前で拒絶されたら、傷付くに決まっている。私はそこらへんの配慮が、苦手な部類の人間なのかもしれない。
「真田くん」
「うおっ!」
昨日もそうしたように、そっと彼の手に自分の手を重ねた。今度は彼も逃げずに私を受け入れてくれるらしい。半透明の大きな手は相変わらず冷たいままだ。
「迷惑だったら、気持ち悪かったら、私はとっくのとうに真田くんを追い出してるよ」
「そ、それではっ。いや、しかし、先は『答えるまでもない』と仰って……」
「うん。答えるまでもないよ。気持ち悪いだなんて思わない」
「名前殿……!」
見開かれた目が、微かに潤んでいるように感じる。それから、安心したのか彼の表情は随分と柔らかくなっていく。良かった。
「ドライヤー投げつけたりとかして、ごめんね。いきなりのことにびっくりして」
「それは某にも非があったのだな、申し訳御座らん」
「うん。じゃあ行こうか」
「何処へ?」
「朝ご飯食べに、リビングへ」
着替えるから先に行ってて、と扉を指差せば真田くんは顔を真っ赤にして私の部屋から飛び出していってしまった。可愛いなぁ、と頬が緩む。まるで弟が出来たみたいだ。
彼はさっき朝食は摂らないと云ったけれど、やっぱり何かいっしょに食べよう。着替え終え、トーストでいいかな、なんて考えながらリビングへと出ると、しかし真田くんの姿はそこには無かった。
くらり、眩暈に揺れる。
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