ピピ、と体温計が平熱を報せた。ぐ、と大きく伸びをすれば、あまり動いていなかったせいか関節がみしみしと悲鳴を上げる。

「もう大事ないので御座るか」
「うん、完璧」
「なんと、よう御座った!」

嬉しそうに幸村が笑う。この数日間、彼はつきっきりで私を看てくれていた。誰よりも心配してくれて、本当にただの風邪で大したことないのだと説明するも、まるで聞く耳持たずだったのだ。

「これで山梨、行けるよ」
「しかし、まだ休んでいたほうが良いのでは」
「大丈夫。それに今日は大学、行かないと」
「くれぐれも無理は」
「判ってるよ」

まったく、つくづく心配性だ。そんなところはきっと猿飛くんから移ったに違いない。少なくとも現世の猿飛くんは気を許した友達にはとことん世話を焼きたがる。

私を案ずる目を感じつつもベッドから這い出す。しばらく買い物にも出られなかったから、冷蔵庫はほとんど空だろう。少し早めに出て朝食は外でとればいいか。

「大学に行くということは、佐助も居るのだな」
「同じ学科だからね」
「また、会えるのか」
「話したい、って思う?」
「いや、もう充分に御座る」

その表情に憂鬱な色はなく、すっきりとした気持ちで云っているらしかった。そういえば、私は気になっていることがあったのだ。

「猿飛くんとなに話したの」

400年前、主従関係にあったふたり。生まれ変わった部下と、未練を残し当時のままの主が一体どんなことばを交わしたのか。

「それは、名前殿でも教えられぬな」
「そう云われるとますます気になる」
「これだけは俺と佐助の秘密に御座る」

なんとなく、そう云われるだろうなと思っていた。とても知りたいけれど、私が知ったところで仕方のない話なのだ。お互いがお互いを尊敬し、ふたりだけの大切なものがある。羨ましくなるくらい、素敵な関係。

「とは云っても、特に大したことは話していないのだ」

ゆるりと笑う。そっか、と私もこれ以上は詮索しない。長年信頼し合ってきた彼らに、多くのことばは要らないのだろう。



外に出る。空は優しい青をしていて、雨の日の面影はどこにもない。ひとつ困ったことがあると云えば、足がむくんでいるのかお気に入りのパンプスが少しばかりきついということくらい。

「良い天気だね」
「うむ。空だけはいつの時代も変わらぬな」

私と同じように空を仰いで幸村が目を細める。星だけはあまり見えなくなってしまったが、と残念そうに続けた。

「山梨や長野なら、ここよりはもう少し見られるかもね」
「誠に御座るか」
「山のほうとかは、多分」

明かりが少ないだろうし、何よりずっと空気が綺麗なはず。山梨へ行ったら星を楽しむのも良いかもしれない。そんな風に頭の中で楽しみを膨らませながら歩く。

「もうさ、明後日くらいには出発しようよ」
「あ、明後日? 急すぎではなかろうか」
「待ってられないんだ」

大学は明日からまたしばらく休日になる。風邪を引いていたからバイトは入れていないし、気候も安定していて丁度良い。

「幸村には、何か不都合があるの?」
「いえ。某も実は待ちきれぬのだ」
「本当?」
「ただ名前殿の体調が心配ゆえ」
「大丈夫だって」
「病み上がりは油断出来ませぬぞ」

子どもを叱る親のような目で幸村が私を見る。

「何かあればすぐこの幸村に申して下され」
「……わかった、ありがと」

好きだな、と思う。自然と繋がれた右手の温もりにひとり頬が緩んだ。



途中、適当なカフェで朝食を済ませてから大学へと向かう。横断歩道で信号が変わるのを待っていると、後ろからトンと肩を叩かれた。

「おはよ、名前ちゃん」

猿飛くんだ。爽やかな挨拶に私もおはようと返す。

「昨日、一昨日休んでたけど、何かあったの?」
「うん。ちょっと用事があって」

適当にごまかす。風邪を引いた、なんて正直に云ったらきっと猿飛くんは自分のせいだって気に病むに違いないから。

なら良かった、とやはり心配してくれていたらしい猿飛くんは幸村と重なるように私の隣に並ぶ。すり抜けられた幸村はむっとしながらも私の左隣へと移動した。他人からは見えない幽霊にはたびたびあることで、その都度幸村は顔をしかめる。仕方ないとは云え、気分が良いものではないのだろう。

「何か今、すっごい寒気した」
「猿飛くんこそ風邪じゃないの」
「まさか」

ぶるりと身を震わせる猿飛くんに私は思わず笑ってしまう。幸村が自業自得だ、なんて怒ったように猿飛くんを睨むからますます可笑しい。

「あっ」

からからと笑っていると猿飛くんが急に小さく声を上げた。

「どうしたの?」
「ごめん、傘持ってくるの忘れた」
「あ、全然大丈夫だよ」
「でも明日からまたしばらく休みなんだよね」
「いつでもいいから、気にしないで」

ごめんね、と再度謝る猿飛くんにこの人も大概、律義というか義理堅い人だと思ってしまう。どうせ旅行に出てしまうから、必要なら折りたたみ傘のほうを使うし、コンビニのビニール傘でも構わないのだ。



2日も休んでしまったため久しぶりの講義は理解出来ない部分も多く、休んだ分のノートを貸してあげようかという猿飛くんの申し出にここは甘えることにした。これで貸し借りなしだ。

猿飛くんとの別れ際、名前殿、と幸村が小さく私を呼んだ。

「またしばらくは大学はないと仰ったな」

確認するような口調に、そうだよと返す。そうか、と呟いた幸村は不意に猿飛くんのほうへと顔を向けた。

「元気でな、佐助」

穏やかな笑顔。ぴくりと猿飛くんの肩が跳ねた。一度だけ後ろを振り返ってから、不思議そうに私に尋ねる。

「何か云った?」
「ううん。私は、何も」
「……そっか。じゃあ、またね」
「うん。バイバイ」

すぐ、いつものように手を振った。そんな猿飛くんの反応に幸村自身も驚いているようだ。それでも次の瞬間には嬉しそうにはにかんで、またな、と今度は私にさえ聴こえないくらい透明な声を零した。



ひたり、耳を澄まし。

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