「……もしもし」
やけに喉が渇く。携帯を耳にあてたまま、カップを手に取りカフェモカをひとくち流し込んだ。ジーという不気味なノイズだけが鼓膜を揺らす。
「幸村?」
「……なぜ、判ったのだ」
「きみ以外いないでしょう」
カップをそっとソーサーに戻す。カチャン、と陶器と陶器のぶつかる音が弾けて、チョコレート色の水面が揺れた。
「……で、どうしたの?」
「すぐ、帰ってくると云っていたではないか」
拗ねたような幸村の口調に、家を出る前の会話を思い出す。窓の外を見遣れば、もう暗くなり始めていた。ひとりで待ってくれていたのか。
「あぁ……、ごめんね」
「いや、謝ることは御座らぬ。ただ、何かあったのではないかと、心配していたのだ」
「……ありがと」
けれど、疑問が浮かんだ。どうして彼は電話なんか使っているのだろうか。そもそも、電話の使い方なんて。
気になって問えば、幸村はすんなりと答えてくれた。
「実のところ、探しに行きたくて仕方なかったのだが、留守番を任されているのに勝手に家を出るわけにもいくまいと……」
留守番しててね。自分の何気ない発言を思い出した。本当、律義な人だ。
「でんわは、名前殿の見よう見真似で。近くに置いてあった紙に、数列が書いてあったので、試しにやってみたのだ」
にこり、微笑む彼の表情が容易に浮かんだ。もしそれが私の電話番号じゃなかったら、彼はどうするつもりだったのだろう。
「して、名前殿は今、いずこにいるのだ?」
「それなんだけどね、いま私、猿飛くんと、いっしょに居るんだ」
「……佐助と?」
幸村のいぶかしげな声に、ちらりと猿飛くんを盗み見る。しっかりかち合った目に、なんだか気まずくなった私は慌てて目線を戻した。
「幸村さ、猿飛くんと……話してみない?」
不思議な話だけれど、幽霊が電話をかけることが出来た。目に見えなくとも、カメラには写るように、声が聴こえなくとも、もしかしたら電話でなら。
「……よい、のか?」
「猿飛くんに訊いてみるよ」
話したいことは、山ほどあるはずだ。
さっきから彼の名前を出しているため、猿飛くんの視線はずっとこちらに向けられていた。携帯を耳から離して、もう一度猿飛くんを見る。
「猿飛くん、幸村が話したいって」
「ゆき、むら?」
「……信じてくれないかもしれないけど、私に憑いてる幽霊」
「信じるよ」
ゆっくりと差し出された手に携帯を渡した。
「俺様も多分、ずっと話したかったんだ」
僅かに触れた指先はひどく冷たかったけれど、細められた目はとても優しい。それは、本来ならば幸村に向けられるべき笑顔なのだろう。
猿飛くんが携帯を耳にあてる。
「もしもし、」
私には幸村の声は聴こえない。今、彼の声を聴いているのは猿飛くんひとりだ。それはとても、妙な心地で。
刹那、伏し目がちだった猿飛くんの瞳が大きく見開かれた。次から次へと、目尻から涙を零す。
ぼんやりと、猿飛くんもそんな風に泣くんだな、と思った。嗚咽こそ漏らさないものの、その姿はもう号泣していると云えるくらい。
私には幸村がなんて云ったのか判らないし、知るすべもない。ただ、ぼろぼろと泣く猿飛くんに、私まで泣きたくなった。多分、幸村も泣きたいのだ。
「……さなだの、だん、な」
掠れた声が幸村を呼んだ。その呼び名に、ひどく懐かしいものを感じた。途端に、溺れたかのように視界が滲んでゆく。
あぁ、幸村も泣いているのか。
私が泣いては駄目じゃないかと、必死で涙をせき止める。瞬きすれば零れ落ちてしまいそうで、私はそっと天井を仰いだ。
じわり、滲んだ。
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