薄暗かった部屋に明かりを付けて、紙とペンをテーブルに広げた。
幸村は勉強熱心だ。この字はこう読むんだよ、と教えればすぐに呑み込む。一度教えたことはもう忘れない。
とは云っても、現代の文字なんて昔の崩れた形のものを綺麗に読み易くしているだけなのだろうから、学習環境があったのであろう武士の彼にとって意外と簡単なものなのかもしれない。
ひらがなとカタカナ、併せて百字。これはもう全部覚えた。カタカナと一緒に簡単な英語もいっしょに教えた。イエスとかノーとか、オーケーとか。ぎこちなく発音するのが可愛くて、つい色々と吹き込みたくなるのはご愛嬌だ。
今は漢字だ。
「さなだ、はこう」
「それにしても、名前殿は字が上手に御座るな」
「幸村に云われると莫迦にされてるみたい」
「莫迦にしてなどおりませぬが」
「知ってるけどさ」
だって幸村のほうが断然上手なんだもん。拗ねたふりをして彼を見れば、案の定あたふたと慌てている。素直で真っ直ぐ、間違いなくそれは彼のいいところだ。笑いそうになってしまう口元をなんとか押さえ込む。
「そ、その、名前殿」
「なに?」
「名前殿は上手に御座りますれば……」
「ふは、判った判った」
悩んだ挙句に彼の出したことばは先ほどと全く変わらないもので、私は堪えきれず笑ってしまう。
「何を笑っておられるのだっ」
「いや、可愛いなと思って」
「か、かわ……!」
本当、そういうところがね。声には出さずに、ただ目の前の紅く染まった顔を見て思った。可愛い。
「はい、続き」
「……う、うむ」
「ゆきむら、はこう」
ボールペンで書かれた「真田」の後ろに続ける。ゆきむら、幸村。
「幸村、なんて素敵な名前だよね」
「そうで御座るか?」
「うん。『幸せ』なんて漢字も、響きも綺麗だと思う」
「『幸せ』、か」
「幸村は幸せ?」
「よく判りませぬ……。ただ、こうして名前殿と同じ時を過ごせるのは、とても幸せだと」
本来ならば有り得ないこと。いや、あってはならないことなのだ。この世の理に反した出逢いだと、それは幸村も私も判っていて、判っているからこそそう思える。
「私も幸せ」
「誠に御座るか?」
「私は嘘は吐かないよ」
いつか交わした約束を私は忘れない。はい、とボールペンを半透明に透ける手に渡せば、幸村も小さく笑って受け取った。実体の無いそれが、質量のある物を握るのは些か奇妙だ。
黒いペン先が、私の書いた「真田幸村」の下に同じものをなぞるように書いた。丁寧でどこか優しげなその字は、彼の性格をそのままに表しているみたいだ。
「やっぱり字上手」
「褒めても何も出ませぬぞ」
「それはこっちの台詞だよ」
幸村が悪戯に笑う。その笑顔は私の心を否応なしにくすぐるのだ。全く、タチが悪い。
「して、名前殿の字はどう書くのだ?」
私にボールペンを返すと楽しそうに幸村は尋ねた。
「こうだよ」
苗字名前。
真田幸村の隣に並べて書き連ねる。普段から使う自分の名だというのに、なんだか緊張した。
「姓は苗字と申すのか」
「そうだよ? 云ってなかったっけ」
「聴いた覚えは御座らぬ。てっきり姓は持たぬものと」
「今は誰でも姓を持ってるよ。みんな平等に」
「平等、に御座るか」
「そうだよ」
意外だ、とでも云うように幸村は目を丸くした。そうか。幸村の時代では誰もが苗字を持てるわけじゃなかったのだった。彼にしてみれば私のような一般市民が姓を持っていることは不思議なことなのだ。それにしても、今まで彼に自分のフルネームを名乗っていなかったことに私自身が驚いた。
「思えば某は、名前殿のことなど何も知らぬな……」
幸村の表情が曇る。そんな顔をさせたいわけではないのに。そう思うと同時に、私のことを少しでも知りたいと思ってくれていることが、とてつもなく嬉しい。
「心配しなくてもこれから知っていけば良いよ」
誕生日、血液型、どこで生まれたのか、好きな食べ物は、愛読書は、得意料理は、幸村が知りたいのならそんなもの、全部ぜんぶ、教えてあげるよ。説明する手間も何もかも惜しまない。
そう笑って、隣に座る彼を見上げる。しかしそんな私とは裏腹に幸村は今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「幸村? どうし……」
「では、」
「うん?」
私の声を遮り、神妙な面持ちで切り出した幸村の次のことばは。
「名前殿の想い人を、教えて下され」
私の手からボールペンが滑り落ちた。机の上を転がって、重力に従いそのまま床に落ちる。からん、と軽い音がやけに響いた。
ころり、転がって。
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