バイト終了時刻間際、混んでいる上に人手が足りないからラストまで残ってくれと店長に頼まれてしまった。

その分の時給は上げてくれると云うから渋々承諾したものの、バイトが終わるまで外で待っていてくれる幽霊のことを思うと人知れず溜め息が溢れた。

結局、予定時刻を大幅に過ぎて上がった私は急いで帰りの支度をする。

この後なにかあるの? なんていう先輩の問いに待っている人がいるのでと早口に答えて控え室を出る。後ろから飛んできた羨ましいというような声は無視して。



外に出れば空はもうまっ暗で星が淡く瞬いていた。からんころん、という店の扉の音に俯いていた顔が上がる。

「名前殿!」
「ごめんね、遅くなっちゃって」
「何かあったのではと心配しましたぞ」
「お店が予想外に混んじゃって」
「なんと。大変だったのだな」

ご苦労様に御座る、と幸村が柔らかな笑顔を向けた。それだけで1日の疲れなど忘れてしまうくらいに私のこころは満たされる。

「幸村が癒してくれるから、大丈夫」
「某には何も出来ませぬが」
「充分」

何もしなくても、そこに居てくれるだけでいいのだ。大きな目をぱちぱちと不思議そうに瞬かせる幸村に、私の頬は自然と緩む。

「来月はお給料いつもより多く入ると思うから、きっと旅行出来るよ」
「誠に御座るか……!」
「うん。楽しみだね」
「でも、良いのだろうか」

幸村が心配そうに問う。なにが? と訊き返せば、少しだけ目線を落として申し訳なさそうに云った。

「苦労して稼いだ金をかようなことに使ってしまって」

そんなもの構わないというのに。気兼ねする幸村に私はくすぐったいような気持ちになる。私の生活を案じてくれているのだと判ってしまうから。

「いいの、私が行きたいから」
「そ、そうで御座るか」
「それに、お金よりも幸村との時間のほうが大事」

好きなことに使って貰えるならお金も本望でしょう、と冗談まじりに云えば、幸村は頬を薄赤く染めて笑った。

「某は何も名前殿に与えられませぬぞ」
「だから、隣に居てくれるだけでいいんだって」

こんな時間がずっと続くなら他には何も要らないとさえ思えるのだから。



部屋に戻ると滅多に鳴らない自宅電話がちかちかとランプを点滅させていた。留守番電話が入ったことを示すそれにボタンを押せば取っている講義の講師の声。

課題レポートを再提出するようにという主旨のことが機械を通して重く流れる。

「な、なんで……」
「如何かしたのだ」
「納得いかない」

完璧とまではいかなくても、可笑しいところや不足していたところなどあっただろうか。とりあえず理由が判らないと書き直すことも出来ない。受話器を取って折り返しの電話をかける。

何コール目かで出た講師にわけを訊いてみれば、しばらくして「間違えた」のひと言。どうやら違う人宛ての電話らしかった。

まったく、心臓に悪い。あれを書ききるのに使う労力は私にとってひどく膨大なものだった。

受話器を置いて脱力すると、すぐ近くには幸村の顔。

「大丈夫で御座るか」
「大丈夫。間違いだって」
「よく判らぬが、よう御座った」

こんな顔をしておりましたぞ、と幸村が眉間に皺を寄せて見せる。その顔に吹き出した私に、幸村もすぐ続けて破顔した。

「それにしても、このカラクリは凄いのだな。遠くの人の声が届くなど考えられませぬ」
「今はどの家庭にもあるかな。持ち運び用の小さい電話もあるよ」
「でんわ、と申すのか」
「うん。メールって云って文章のやり取りも出来るから凄く便利」
「これがあると、文はもう必要ではないのだろうか」

取り出した携帯電話をまじまじと観察しながら幸村が呟いた。一種のカルチャーショックなのだろう。彼らの時代は紙でのやり取りが当たり前だったから。

「今は手紙って云うんだけど、紙での疎通の方法も残ってるよ」
「誠に御座るか」
「私もレターセットとか、集めてたな」
「れたーせっと?」
「手紙を書く紙だよ。封筒と便箋があるんだけどね」
「今の文は難解なのだな……」

レターセットが一体どんなものなのか頭に浮かばないらしく、幸村は難しげな顔をして呟いた。見せてあげようか、と云えば嬉々として頷く様子に笑みが零れる。いつだって幸村はこちらまで嬉しくなるような反応を返してくれる。

机の引き出しの奥から何種類かのレターセットを取り出せば、おお! なんて声が上がった。

「この便箋に文を書いて、こっちの封筒に入れて送るの」
「なるほど。これなら中身を見られずに相手に届くというわけなのだな!」
「まあ、そうだけど……」

そうか、そういう考え方か。確かに、文で重要な機密事項を送り合っていたりしたら、誰かに見られないかとか心配になるのかもしれない。

「ポストに入れると昔で云う飛脚さんが、宛先に届けてくれるんだよ」
「ぽすと?」
「赤い大きな箱、見かけるでしょう?」
「あれか! それは便利で御座るな」

私たちにとってはもうアナログであるそのシステムさえ、幸村にとっては画期的なのだ。いつもメールで済ましてしまっているけれど、久しぶりに実家に手紙でも送ろうかなんて思わせられる。

ふと時計を見やれば帰宅してからもう随分と経っていた。

「わっ、もうこんな時間。私、お風呂入ってくるね」
「判り申した」

深夜、明かりがついているのはもはや私の部屋と街灯くらいで、外は薄暗く閉ざされていた。

以前だったら、家に帰れば誰とも話さずご飯を食べてお風呂に入ってただ眠るだけの日々だったのに、幸村が居るだけでこんなにも日常が変わるのだ。

こんなにも楽しく、明るくなって。時間を忘れてしまうくらいに。




ひらり、めくるめく。

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