半兵衛さまが私の部屋にいらっしゃったのは、陽が沈んでからのことだった。自ら治療室にやってくることなど滅多にない半兵衛さまであるから、なにか大事があったのではないかと心配になって、わたしは開口一番、彼に訊ねたのだ。
「半兵衛さま、このような刻に、もしや、どこかお加減が悪うございますか?」
わたしの焦りようが伝わったのか、半兵衛さまは苦笑気味にそれを否定した。
「いや、いまは平気だ。それとも、体調が悪くなければ来てはいけなかったかな」
「い、いえっ、決してそのようなことは」
慌てて返すと、半兵衛さまはどこか愉快そうに目を細める。わたしの忙しない反応を面白がっておられるのかもしれない。
「このあと、やくくんはなにか用事があるかい」
「ございませぬが……」
「なら、少し話がしたいんだ」
それがいったいどのようなお話なのか検討もつかないわたしは、ただ半兵衛さまを部屋へお招きして、お茶の用意をすることくらいしかできなかった。
「すまないね」
ひと言そう云って湯呑みに口をつけると、半兵衛さまは切り出した。
「まず、ひとつめは、つぎの戦のことだ」
「朝鮮への出陣でございますね」
「ああ、そうだ。その朝鮮へ、やくくんにもついて来て欲しい」
いつもと変わらぬ穏やかな口調であるのに、どこか切実さの灯る声に、わたしはすぐには返事をすることができなかった。
半兵衛さまはそんなわたしの心境も見透かしておられるのか、なおも柔らかな声音でつづける。
「長い戦になることが予想されるからね、怪我を負う者はもちろん、慣れない異国で病にかかる者も出る。やくくんには、そういった兵たちの治療を担うとともに、ほかの金創医たちへの指揮も頼みたいんだ」
真剣な瞳に射抜かれて、わたしは目を逸らせない。戦ならば、怪我人は当然のこと、死人も出るだろう。戦の経験などないわたしに、そのような務めが果たせるだろうか。
数瞬のあいだ思考の海を彷徨って、けれども、それがわたしに与えられた使命というならば、全うしてみせようと決めた。彼の、半兵衛さまの、その眼差しに応えたい。
「それが、豊臣に従軍する薬師の役目なのでございますね」
「そうだよ。もとより、ご存命の頃は君のお父上の務めだったのだからね」
半兵衛さまのことばに、記憶が蘇る。そうであった。戦で兵たちが出陣するたび、父はそれについて行っていたはずだ。わたしはその帰りをいつも、不安に押し潰されそうになりながら待っていた。
今度はわたしがその場所へ、赴く番なのだ。
「任せてもいいかな」
最後の確認に、わたしはうなずく。
「精一杯、務めさせていただきます」
「ありがとう、助かるよ」
「いえ、それがこのやくの使命なれば」
「そうだね。しっかり励んでくれたまえ」
笑みを深める半兵衛さまへ、はい、と強く意気込んでみせたのち、わたしはひとつ、頭を下げる。
「初めての戦にございますゆえ、どうかご指導お願いいたします」
戦のいの字も心得てはいない女のわたしを、金創医たちの上に据えてくださると云うのだ。間違っても足手纏いにだけはならぬよう、できる限りの準備はしておきたい。
すると、ふ、と半兵衛さまの微かな笑い声が降ってきた。低い体勢のまま目線のみを上げてみれば、彼は自分の顎のあたりに片手を掛けて、わたしをどこか楽しげに見下ろしていた。
「あの、半兵衛さま、」
「いや、すまない。君の真摯さは、本当に頼もしい限りだよ」
ほら、頭を上げて、と促され、わたしは姿勢を正す。まっ直ぐに目と目が合う。半兵衛さまはその表情を変えることなく、わたしに向かって手を伸ばした。
「僕は君の、やくくんの、そういうところに惹かれるのだろうね」
すこし低い体温を持つ手のひらが、わたしの頬を包む。突然のことにわたしは声が出ないどころか、呼吸さえも止まってしまいそうだった。
「もちろん、戦については何でも教えよう」
半兵衛さまはそんなわたしに構わずつづける。
「けれどもその前に、ふたつめの話をさせてはくれないかい」
いつになく甘やかな声。わたしは黙ってうなずくのが精一杯だった。
ほんのすこしの沈黙のあとで、半兵衛さまはわたしの頬に添えていた手をゆっくりと離した。そして、今度はわたしの膝の上にあった左手を取る。
「ふたつめの話は、此度の戦が終わってからのことだ」
「戦が、終わってから、」
「ああ」
曲直瀬やくくん、と改まって名を呼ばれる。
「君は、姓を『竹中』に改める気はないかい」
一瞬、刻が停まったかのようだった。このお方は、いま、なんと仰ったのだ。紡がれた言の葉の意味をすぐには理解できず、幾度も頭のなかでその響きだけを反芻する。
姓を、『竹中』に。
それはつまり、わたしが半兵衛さまのお家に入ると、その気はあるかと、問うておられるのだろうか。
ことばを失ったままのわたしに、半兵衛さまはすこし困ったようにつけ加える。
「この夢の先まで僕とともに歩んで欲しい、というのは、我儘かな」
信じられない気持ちでいっぱいだった。だって、これ以上のしあわせが、いったいどこにあるというのだろう。
「わたしなどで、よいので、ございますか」
震える声で訊ねれば、半兵衛さまに委ねたままだった左手をやさしく引き寄せられた。そして、薬指に、小さな口づけが落とされる。
「この指が、多くの者を癒してきたところを、僕はいちばん近くで見てきたつもりだよ」
ひたと向けられた淡く清廉な微笑みに、わたしは涙が零れそうになった。
「やくくんだから、僕の傍に居てほしいんだ」
「うれしゅう、ございます」
その命がもう、そう長くないことは、わたしも、そして半兵衛さま自身もきっと知っているけれど、最期までお傍に居られるのなら、ほかに望むことなんてなにもない。
「どこまでも、お供いたします、半兵衛さま」
わかつ想ひに薬指
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