豊臣軍の薬師であり、半兵衛さま付きの侍医でもあった父上が死したのは、織田が滅びてすぐのことだった。病死であった。必死に自分の病を隠しながら、他の者の治療に当たっていたのである。莫迦だ、と思った。しかし同時に、そんな父上はわたしの誇りでもあった。
 母上はわたしが幼少の頃にすでに亡くなっていて、子もわたしのみしか成さなかったようである。そのため、父の一人娘であるわたしが自然とそのあとを継ぐかたちとなった。父上から授かった有り難き本草学の知識を抱えて。
 豊臣軍はと云うと、その後は驚くべき速度で勢力を拡大していった。周辺の小国を次々に我が物としていったのち、まずは徳川を降伏せしめ、伊達を壊滅寸前まで追い込み、それから長曾我部や武田をも下すと、毛利とは同盟を結ぶこととなった。そしてついに、北条を無血開城させることに成功。たった数年余りで天下統一が成されたのだ。
 次は世界へ。
 秀吉さまが日ノ本で満足することはなかった。一連の天下統一は秀吉さまにとって世界への踏み台でしかなかったのだ。途方もないその力を武器に、いまは朝鮮出兵を考えておられると云う。
 初春。世は泰平を知らぬまま、新たなる戦火に足を踏み出そうとしていた。




すみれ霞み




 早朝。身支度を整えていると慌てたように廊下を走る足音が聴こえてきた。なにかあったのだろうか、なんてまだ回りきらない頭で思っていると、足音はすぐに近くなって、
「曲直瀬殿!」
 スパン、と勢いよく襖が開かれた。着物の帯を締める手が止まる。家康さまだった。ひどく焦った様子だ。
「竹中殿が! 急ぎ診てくれ!」
 なにか、と訪ねる前に家康さまが矢継ぎ早に紡ぐ。刹那、自分のなかにピリリと痛いほどの緊張が走った。
「すぐに参ります」
 きゅっと帯を固く締め、薬箱を抱えて部屋を飛び出す。先を駆ける家康さまの案内で半兵衛さまのもとへと向かった。

 半兵衛さまは自室ではなく、軍議などが行われる大広間におられた。傍らで三成さまがその背を労るようにさすっている。広げられたままの布陣図には黒い墨とは対照的に点々と散る赤。
「半兵衛さま、やくにございます」
 失礼致します、と断ってから咳き込む半兵衛さまをその場に横たえる。なにか云いたげな紫紺の瞳がゆるりとわたしを見上げたが、咳が邪魔をしてことばが出ないらしかった。咳は以前よりもひどく乾いたものになっている。
「家康さま、火鉢に火を入れていただけますか」
「任せてくれ」
「三成さまは水と、それから褥の用意を。ここで構いませぬ」
「わかった」
 触診を始めながらそれぞれに頼む。いつもなら女中などにさせるのだけれど、生憎と呼びつけている時間はない。
 肺のあたりを軽く押し込むと、半兵衛さまは殊更苦しそうに表情を歪めた。病魔は着実に彼の体躯を蝕んでいる。
 薬箱から薬草をいくつか取り出す。労咳に効くとの噂を聞きつけ、秀吉さまが朝鮮から仕入れたという高麗人参。ひどく高価なものだということは云わずもがなだ。これを棗や生姜とともにこれから煎じる。
「曲直瀬殿、火が入った」
「ありがとうございます」
 家康さまのひと言に礼を述べる。視線を巡らせれば、水はいつの間にか傍に置いてあり、蒲団の用意もできていた。三成さまは心配そうに半兵衛さまを遠目から覗き込んでいる。
「三成さまも、ありがとうございます」
「いや、いい。それより、半兵衛様を」
 厳しい顔つきでことば少なに云った。わたしはうなずいてから、土瓶に水とそれから薬草たちをいれて火にかけた。これから半刻は煎じなければならない。
「半兵衛さま、褥へ」
「ああ……」
 ゆっくりと身を起こすその背を支える。家康さまの手も借りて半兵衛さまをあらためて蒲団へと横たえた。
「すまないね、やくくん……きみたちも」
 半兵衛さまが私たち三人を見回す。掠れた声が痛々しかった。
「これがやくの務めでございますゆえ」
 わたしは首を横に振って、そう答えた。

 じっくりと煎じた高麗人参の薬湯を湯呑みにそそぎ、身を起こした半兵衛さまの口もとへと運ぶ。琥珀色の液体が血色の悪い唇を濡らした。時折咳き込みながらも、半兵衛さまは少しずつすべてを飲み干してくださった。
「お加減、いかがでございましょう」
「ああ、だいぶ楽になったよ」
 呼吸が徐々に落ち着いていく。わたしもほっと息をついた。静かに見守っていた家康さまと三成さまも、安堵の色をその表情に浮かべている。
「曲直瀬殿、朝餉にしよう」
 家康さまが明るい声で云った。そういえば、起きてからまだなにも食べていないのだった。
「半兵衛さまも、食べられますか」
「そうだね、頂くよ」
「それでは後ほど、こちらにお持ち致しますね」
「ありがとう」
「少しお休みになっていてください」
 ひとつ礼をしてから、三人で広間を出た。音をたてぬよう襖を閉めてすぐ、前を行くふたりに声をかける。
「おふたりも、すみませんでした。女中を呼びつけるいとまがなかったもので」
「なんの、役に立てたならよかった」
「……半兵衛様のためとなれば当然のことだ」
 家康さまは太陽のように輝く笑顔で、三成さまは月のように澄んだ瞳で、そう云ってくださった。
 あらゆるひとたちが、まだまだ未熟で父のようにはいかないわたしを手助けしてくれる。豊臣軍は力強く、あたたかな軍だ。
 わたしは豊臣軍が好きだと、胸を張って云うことができる。ここに仕えることができてしあわせだと、疑いようもなく思える。
 藍色だった空には太陽が昇りはじめ、白んでいた月は身を隠す。城内にはささやかな朝餉のにおいが空腹を誘うように立ち込めていた。




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