touch | ナノ


目が覚めたら隣にいるはずの彼女が居なかった。代わりに半開きになったままのベランダからレースのカーテンが月明りを浴びて揺れている。暗闇が広がる小さな部屋にふわりと流れ込む冷たい風は夜の匂いがした。少し肌寒い。カーテン越しに彼女の影が見えた。ベランダに立っているその影は輪郭が弱くて寂しくて何故だか無性に悲しくなる。今にも消えてしまいそうなそれが怖かった。僕は身体を起こしてゆっくり彼女の元へ向かう。カーテンが揺れる。揺れている。雨の音が聞こえる。夜の匂いに混じる雨の匂い。ふわり。鼻を掠める。カーテンがまた、揺れる。









「寒くないの」



小さく呟くと彼女が振り向いた。長い髪が風に浮いた。僕はベランダの段差に腰掛けるようにしてしゃがみ込む。





「大丈夫」



月明りでぼんやり見えた彼女は頬を緩ませながら柔らかい口調でそう言った。部屋から1歩出ただけのそこはもう世界が違う。こんなにも空が近くてこんなにも空気が冷たくてこんなにも月が明るくて、何もかもが新しくて眩しい。弱い雨が降っている。雨が排水管を流れる音が不思議と心地良い。星は見えない。ただ重たそうに灰色が空を埋め尽くすだけ。どこまで広がっているのか。きっとそんなの誰も知らない。知りたくなんてない。知らなくてもいい。







「ほし」



「え?」



「見えないね」





彼女はそう零してやっぱり空を見ていた。さっきから同じ姿勢でただ、じっと。見ている。彼女の髪だけが風になびいてゆらゆらと動くだけだ。それだけ。何も見えないのにまるで彼女はそこに何か見えているかのようにあるいは見つけようとするかのように見つめ続けているのだ。でもやっぱりそこには何も無い。雲の動きさえも月の影さえも何も無い。灰色。これが雲なのかも分からない。ただの灰色。





「もしさ」



「‥」



「わたしが死んだとしても、」



「‥なにそれ」



「わたしの事忘れないで、なんか言わないよ。わたしは。わたしは、忘れて欲しい、」



「‥‥なに」



「忘れて。忘れてください。お願いだから、忘れてね。それで圭はわたし以外の誰かと新しい幸せを見つけて欲しい」



「いきなり、なに」



「圭には幸せになって欲しいよ」





強い風がびゅうと耳元で泣いた。僕は怖くなる。怖い。怖い。灰色が蠢く。彼女の影がそれはまるで今にも灰色に飲み込まれそうな気がして、今にも灰色に溶けていきそうな気がして、僕の視界が揺らぐ。彼女の言葉がまだ脳味噌の中で震えている。その言葉の意味を噛み締めて僕の視界はまた揺らぐ。僕の眼球に当たる風がひどく冷たく感じる。怖い。彼女が消えてしまう。消える。無くなる。彼女の薄い輪郭が溶けてしまう。溶ける。無くなる。僕は怖い。僕は手を伸ばす。輪郭を掴むように。僕は震えている。そして僕の右手は彼女の手首に、触れる。掴む。その細い彼女の手首にはっきりと脈を感じる。僕は泣きそうになる。温かい人の鼓動。心臓の唸る音。彼女は此所にいる。今、目の前に。右手にぎゅう、と力を込めると小さく痛いよ、と彼女の声がする。僕は今、泣いている。



touch.










1st birthday.

thank you.



20080901

gelatin yuki




人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -