一瞬、声を掛けるのを躊躇ってしまった。
ほろ苦い香りを漂わせるコーヒーにも手をつけずに、窓辺でどこか物憂げに空を見つめる姿。
その綺麗な横顔に私はその場で立ち尽くした。
それから言いようのない黒い不安がどろどろと胸の中に溢れる。
「…芽衣?」
空を見ていたはずの鴎外さんが、私へ視線を向けていた。
その表情にはさっきまでの憂いの一つも無く、穏やかな笑みが浮かんでいる。
「…鴎外さん」
「どうしたんだい、そんな所でボーっとして。さあ、こっちに来なさい」
優雅に手招きをする鴎外さんに従って、ふらふらと私は彼のもとへ歩いた。
その間にも、不安は胸の中で溢れていく。
「芽衣?そんな浮かない顔をして、何かあったのかい?」
「…鴎外さん、」
「ん?」
口に出してしまって、いいのだろうか。
それは、明治時代から平成へ帰って来てからずっと抱いていた疑問。
ずっと、怖くて聞けなかったこと。
「鴎外さんは、この時代に来たことを後悔してますか?」
少し、声が震えた。
怖くて、鴎外さんの目を見れない。
この時代に来てから、鴎外さんは時々空を見ては物憂げな表情を浮かべるようになった。
その度に、私は不安で怖かった。
もしかしたら鴎外さんは現代に来たことを後悔してるんじゃないかって。
私が、綺麗な鴎外さんを曇らせているんじゃないかって。
「…芽衣、僕の目を見なさい」
「……はい」
黄金色の瞳が真っ直ぐに私を射抜く。
どこまでも真摯で、真剣な瞳だった。
「…おまえはずっとそう思っていたのかい?僕がこの時代に来たことを後悔しているのだと」
「……はい」
するりと鴎外さんの掌が私の頬を撫でた。
それから小さく息を吐き出した。
「…僕は、駄目な男だな。おまえにそんな顔をさせてしまうだなんて」
「そんなことありません!それは、私が…」
「おまえは何も悪くないよ」
鴎外さんは一瞬長い睫毛を伏せて、それから再び私の瞳を見つめた。
「僕はね、おまえとこの時代に来たことを少しも後悔していないのだよ」
「でも、」
「……確かに、代償は大きかった。あの時代に僕が残してきたものはどれも大切で、未練が無いわけではないが」
言葉を切って、鴎外さんは両手で私の顔を包み込む。
そして、穏やかな声で語る。
「僕にとって、おまえ以上に大きい存在は無いのだよ。僕が愛してるのは、芽衣だけだ」
ーああ、だめだ。
私は、この人じゃなきゃだめだ。
鴎外さんのいない未来なんて考えられない。
「鴎外、さん、」
「ははは、泣くな芽衣。せっかくの可愛い顔が台無しだ。まあ、おまえは泣き顔も愛らしいが」
優しい微笑をたたえたまま、鴎外さんは指先で私の涙を拭う。
「僕は何度時を戻せたとしても、変わらずにおまえと共に生きる選択をするはずだ。僕が選ぶのは、芽衣、おまえだけなんだよ」
ふわりと鴎外さんの腕に包み込まれる。
甘い煙草の、鴎外さんの匂いでいっぱいになる。
春草さんやフミさん、明治時代の『森鴎外』としての人生、そしてかつてドイツで愛した人。
全てを犠牲にして、鴎外さんは私を選んでくれた。
それは、なんて幸せなことだろう。
なんて愛しいのだろう。
私も、鴎外さんにとってそんな存在でありたい。
「…僕はね、思うのだよ」
ゆっくりと鴎外さんは言葉を紡いだ。
それはまるで、その言葉を大切に大切に、噛みしめるように。
「どんなに時代が巡っても空の青さは変わらないのだと。百年前に僕がこの東京で見ていた空も、今と同じくらい青かった」
「…はい、私もそう思います」
視線を窓から見える、どこまでも澄んだ空へ移す。
空は、今日も青かった。
「…きっと春草やフミさんも明治でこの空を見ているのだろう」
「……はい」
「…僕は今、芽衣と共に居られて、共に生きていけて、とても幸せだよ」
甘い煙草の匂いと、優しい腕。
大好きな人の、温もり。
私は今、この人とこの時代を共に生きている。
空の青さは今日も変わらない。
いつまで経っても綺麗な青は色褪せない。
この時代で、この世界で、私は鴎外さんと生きている。
(ねえ、幸せです。私は)