それを恋と呼ぶのです 



「春草さんって好きな人とかいないんですか?」
「……は?」

夕方、森邸のサンルームにて。鴎外が仕事から帰ってくるまでの間、春草は新聞を、芽衣は読みかけの小説を向かいのソファで読んでいる時だった。
お互い無言でそれぞれの時間を過ごしている時に、不意に芽衣がその静寂を突然すぎる質問で破った。
春草は新聞から顔を上げて、まじまじと芽衣を見つめる。いきなり何を言い出すんだこいつは、という瞳で。

「…なに、どういうつもり?」
「いや、ただの好奇心です。別に深い意味は無いんですけど…」
「…ああ、そう」

春草の視線に耐えられなくなったのか、芽衣は気まずそうに視線を外す。この様子じゃ本当に深い意味は無かったのだろう。

「…いないよ。まだ学生の身だし。恋愛をしている場合じゃない」
「そ、そうですよね」
「……なにその表情。言いたいことがあるなら言いなよ」
「…春草さんって人を好きになることあるんですか?」
「…君さ、物凄く失礼なこと言ってるって自覚ある?あるとしたらすごいね。心の底から君の無神経さがすごいと思うよ」
「ち、違います!そういう変な意味じゃなくて!」

慌てる芽衣に冷やかな視線を送りながら、春草は小さく息を吐き出す。彼女は春草が恋愛をしていることについて想像がつかない、ということを言いたいのだろう。

芽衣の言葉を受けて春草は考える。果たして、自分は今まで誰かに恋をしたことがあるだろうか。
法律家を目指していた幼い頃はともかく、故郷である信州で暮らしていた時も、上京した今も、春草の生活の中心は絵だ。
容姿のせいか、好意を向けてくる女性は何人かいたけれど、春草にとって夢中になれるのは、やはり絵だった。

じゃあ、そんな自分が人を好きになることができるのか。そんな疑問が春草の頭に浮かんだ。
いつかはきっと結婚をするのだろう。何かと世話を焼いてくれる兄あたりから勧められて、妻を娶ったりするのだろう。胸が焦がれるほど誰かを本気で想うこともなく、一生を終えるのだろうか。

「…しゅ、春草さん?」
「……別に、なんでもないよ」

突然、黙り込んだ春草に芽衣がさっきまでの慌てぶりから一転、今度は心配そうな眼差しを向ける。

「そういう君はいないの?」
「え?」
「懸想している人」

春草の言葉に芽衣は瞬きを繰り返す。まさか自分が聞かれるとは思わなかった、という表情。

「……いないですね」
「なにその間は」
「特に意味は無いですけど…」
「ふうん。まあ、君は色気より食い気って感じだしね」

鼻で笑われて芽衣は不服そうに眉を寄せる。けれど、その言葉に思い当たる節があるのか、「たしかに…」と呟いている。

そういえば、と春草は気付く。こんなに気兼ねなく話せる異性は芽衣が初めてだった。
同年代で、同じ居候という立場だということもあるのだろうけど、芽衣相手にはあまり気を遣うことはなかった。
春草の遠慮のない言葉にも、皮肉にも、芽衣はなんだかんだと受け止めて、逆に真っ直ぐな言葉を春草に投げつけることもある。
言ってみれば、気が合うというほどではないが、こうやって話をする分には楽な相手だった。

「…好きな人、できますかね…」
「無理して作るもんじゃないでしょ。まあ、君くらいの年頃の女性だったら、懸想する相手の一人や二人、いそうなものだけどね」
「一人で十分ですって。それに、春草さんだって私とそんなに年変わらないくせに」
「まあね。………あ、」
「どうしました?」
「顔に睫毛ついてるよ」
「えっ、どこですか」

春草の示す場所へと芽衣が手を当てるが、絶妙にずれていて中々とれない。
とれました?なんて聞く芽衣に春草は首を横に振り、溜め息を吐いた。

「そこじゃないよ。ほら、」
「えっ…」

見ていてじれったいから、ソファから腰を浮かせて向かいに座る芽衣へと手を伸ばす。
柔らかな頬を春草の華奢な指が滑り、睫毛を払いのける。

その時、蜂蜜色の瞳と目が合った。

「え……」

春草の身体に、なんとも形容しがたい感覚が走る。衝撃的で、くすぐったくて、心臓を鷲掴みにされたような。
ずっきゅん。
そう、それは例えるならこんな音だった。

春草は瞬きをすることさえ忘れて、じっと芽衣の顔を見つめた。芽衣も春草のただ事ではない様子に、驚いた表情で春草を見つめ返す。

長く豊富な睫毛に縁取られた、蜂蜜色の双眼は少し潤んでいて、オレンジの柔らかい照明を受けて、きらきらとまるで宝石のように光っていた。
頬は微かに薔薇色に染まっていて、戸惑ったように開かれた小さな唇は、紅を付けていないにも関わらず赤く色付いている。

「春草さん……?」
「……君って、こんなに可愛かったっけ」
「……へっ?」

それは、春草の意識外で紡がれた言葉だった。その言葉を受けて、芽衣も、そして春草も固まる。
春草が自分の言ったことを理解した瞬間、慌てて芽衣から身体を離して、白い肌が一気に赤く染まった。

「…えっ!?な、…ど、どうしたんですか…!?」
「し、知らないよ!」

いつも物静かな春草にしては珍しい大声だった。こっちが聞きたいくらいだと、春草は真っ赤な顔のまま手の甲で口許を押さえる。
なんだ、これ。なんだ、この、感情。なんなの、これ。
心臓がやかましい。春草は初めての感覚に、戸惑い、もう一度芽衣を見つめた。

だって、ありえない。世間知らずで、食い意地だけは誰にも負けないような、この同居人が可愛い、だなんて。
芽衣も大きな瞳をさらに大きくして、春草と同じくらい真っ赤な顔で春草を見つめていた。
きゅん。
ああ!なんなんだ!と春草は頭を振る。

「も、もしかして、熱とかあります…?」
「ないよ。俺はいたって健康体だ」
「で、でも顔が赤いです」
「君もだよ!」

春草の言葉に芽衣は両頬を小さな手で押さえる。そんな仕草すらどこか可愛らしくて、春草は芽衣の挙動、表情から目が離せなかった。
彼女はそんな春草の視線に気付くと、困ったように、恥ずかしそうに、けれども春草から目を逸らさない。

頬を押さえる手に春草は自らの手を重ねる。筆を握ることしか知らなかったひんやりした手が、温かな体温に心地好さを覚える。
芽衣は春草の行動に、驚いたように少し肩を跳ねさせたが、それでも何も言わずに目の前の男を見つめ続けている。
自分の行動が理解できないまま、春草も相変わらず赤い顔をして、芽衣を深い色をした瞳で見つめる。
二人の間を流れる空気は、どこか落ち着かない、けれども離れがたい、そんな空気だった。


「……お前達は、何をやっているんだい?」

二人を我に返らさせたのは、家主の声だった。
白い軍服を身に纏った仕事帰りの鴎外は、腕を組んでサンルームのドアに凭れかかりながら、真っ赤な顔の二人を、面白そうに眺めていた。

「…お、鴎外さん、おかえりなさい」
「ただいま、二人とも」
「……あの、いつからそこに?」
「今しがた帰ってきたところだが?…ところで、お前達はそんなにも仲が良かったのだな」

優雅な笑みを湛える鴎外の言葉に、二人は慌てて身体を離し、元の距離へと戻る。なんとも言えない、微妙な、気まずい空気が流れる。
そんな空気を気にすることなく、鴎外はいつもの笑みを浮かべて、言葉を続けた。

「さあ、そろそろ夕飯の時間だよ。仲が良いのは大変よろしいことだが、準備をしなければね」
「あっ、私フミさんを手伝ってきます!」

赤く染まった顔のまま、芽衣はこの場から逃げ出すようにサンルームを飛び出した。
「うむ、元気があるのは良いことだ」と笑う鴎外の声もきっと届いていないに違いない。
春草も身体に留まる熱を放つように大きく息を吐き出して、畳んだ新聞紙と芽衣の小説を持って部屋を出て行く。が、鴎外に背を向けた瞬間、呼び止められ、振り返る。

「春草、おまえも隅に置けないなあ」
「……なんのことですか」
「おや、しらばっくれるつもりかい?まあ、いい。相談なら、いつでも乗ろう」
「……は?」
「僕は色男ほど経験豊富というわけではないが、女性との付き合いも扱い方もおまえよりは心得ているはずだ。だから、聞きたいことがあるのならなんでも僕に聞いてくれたまえ。…例えば、子リスの仕留め方、とか」

ひどく楽しそうに笑う鴎外を春草が睨み付ける。けれど、その顔はやはり赤くて、その様子が鴎外の笑いを助長させていることに彼は気付かない。

「ははは、若者よ、存分に青春を謳歌するが良い!」
「余計なお世話です」

芝居がかった口調でそう言う鴎外に今度こそ背を向け歩き出す。背後から「あの堅物の春草にも春か…」なんて感慨深げな声を、聞こえないふりをして春草は足を速めた。

台所から芽衣とフミの話し声が聞こえる。なんとなく、手にした芽衣の読みかけの小説の表紙を見つめた。

頭の中は、さっきよりも冷静だった。冷静だからこそ、自覚してしまった。
いまだに熱を持っている顔に、春草は苦い顔をする。
ーーああ、参った。
気付かなければ、良かった。自分が、あんな厄介で世間知らずな子を。

春草は溜め息をひとつ吐き出して、人が恋に落ちる時って音がするんだな、なんてことを思った。







ただの一緒にいて楽な相手だと思ってたら、ある時急に好きだと自覚しちゃう春草。
 
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