悪人 


※不倫してる八芽






微睡みの中、私は考える。遠くではシャワーの音が聞こえる。あの人が入っているのだ。汗の匂いも、私との繋がりもすべてシャワーで洗い流して無かったことにする。

サイドテーブルの上に置かれた眼鏡のレンズが朝の光にきらりと反射した。特に意味は無いけど、その眼鏡を手にとって、それからかけてみる。ああ、ぼんやりして気持ち悪い。視力が良い私にはこんなもの必要無いのだ。

「おや、何をやってるんですか」

視界を歪ませる眼鏡をかけたまま、ぼんやりと天井を見上げていると、シャワーを浴び終えた八雲さんが不思議そうな表情で私にそう言った、ように思う。実際は、眼鏡のせいで彼の表情はよくわからなかったけれど。

「八雲さんはいつもどんな景色を見ているのかな、って」
「ははは、何が見えましたか?」
「何も見えません」
「それは残念です」

八雲さんはタオルで濡れた頭を拭いながら、私の横たわるベッドへ腰をかけた。ぎしり、と。

「シャワー、どうぞ。貴女も汗をかいたでしょう」
「もう、帰っちゃうんですか?」

私の言葉に彼は何も答えない。きっといつものように微笑みを浮かべて、何も残してくれないで、私の知らないうちに帰るのだ。
薄情な人だ。

八雲さんは何も言わないまま、手を伸ばして私の頬を撫でた。男の人にしては華奢な、それでも私よりは大きな掌。大して温かくもないこの手が私は好きだった。

「行かないでください」
「おや、今日は珍しく我儘なんですね」
「私と、あの人、どっちが好きですか、」

八雲さんの表情はわからない。眼鏡をかけていて良かったと思った。
もしも、見えてしまったのなら私達は何か変わっていたのだろうか。

「勿論、貴女ですよ」

嗚呼、うそつき。
なんて、酷い人だろう。貴方の左手の薬指を見る度に私がどんな思いをしているか、この人は知っているくせに。
それでも、彼は平気で私を好きだと言うのだ。

「眼鏡、邪魔ですね」

そっと眼鏡を外されて、それから、八雲さんは身を屈めて私へキスをした。
鼻を擽るのは、八雲さんの匂い。この人は、あまりにも優しく私に触れるから、私は本当に彼に愛されているかのように錯覚してしまう。

「好きですよ」

だけど、私はこうしていつも騙されるのだ。馬鹿な女。これが正しい行為だとは思ったことはないけれど、それでも私はこの間違った関係を断ち切ることなどできないのだろう。
その先に何があるのかは私にはわからない。眼鏡をかけていてもかけていなくても、結局私には何も見えなかった。

でも、それでも、今だけはこのままで。
彼の背中にそっと腕を回す。
この人を独り占めしたい。今だけは、この人は私のものになってくれるだろうか。


 
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