真夏の懺悔 



ごめんなさい。

情けないことに、私の唇から零れ落ちたのはそんな謝罪ひとつだけで、本当はもっと何か言わなければいけないのだと頭ではわかっていた。わかっていたのだけれど。

「芽衣」

けれど、貴方が、鴎外さんがあまりにも優しく綺麗に微笑んで私を見つめるから、途端に私の頭の中は真っ白になって、何も言えなくなるのだ。
ぐるぐると胸の奥で渦巻くこの感情を何と名付ければいいのだろうか。吐き気にも似たこれはなんだろう、罪悪感、とか。

「鴎外、さん、」

ごめんなさい。

馬鹿な私はもう一度同じ言葉を繰り返した。口の中はからからに乾燥しているのに、目の奧は熱くてじわりと視界が滲む。ああ、私どうしたいんだろう。いっそのこと、この胸の奥につかえた感情をこの場所にぶちまけてしまえたらいいのに。

「芽衣、もう良いんだ」

大丈夫だから。そう言って鴎外さんはやっぱり綺麗に笑う。
ねえ、どうしてそんな顔で笑うんですか。私は罵って蔑んでくれたって構わないというのに。私は、今貴方を傷付けているというのに。

「おまえは、おまえの好きなように生きなさい」

ああ、馬鹿ね私は。本当はわかってる。ちゃんとわかってる。
このまま此処に留まってこの人と生きていくことの方が幸せなんだと、そんなことわかりきっている。だけど、馬鹿で弱い私は自分が生まれたあの世界への未練を断ち切れずにいる。鴎外さんは私を選んでくれたというのに。

「ごめん、なさい…っ、」

救われたくなんかない。許されたいわけじゃない。だから、お願い。そんな顔で笑わないで。





はっと目を覚ますと、もう昼過ぎであった。
蝉時雨は喧しく私の鼓膜を揺さぶり、じっとりと身体は汗ばんでいた。この真夏に壊れたクーラーを恨めしく思いながら、私は扇風機のスイッチを入れる。

私はもう一度寝転がると、読みかけの本を手にとりぱらぱらと頁を捲る。
どうして今更この本を読もうと思ったんだろう。本の表紙に印刷された文字は『舞姫』。
私は本を閉じて題名を指でなぞる。それから、その下の著者の名前も。

あれから数年が経って私はもう大人だ。どんなに嘆いたって否応なしに時は進んでいく。
かつて私がまだ少女だった頃のあの時代の、あの人の思い出も少しずつ色褪せていくのだ。その証拠に、私はもうあの人の声を忘れてしまった。私がもっと歳をとってよぼよぼのお婆ちゃんになった時にはどれだけ忘れてしまうのだろうか。いや、あの人のことをどれだけ覚えていられるのだろうか。

なんとなく、今頃になってこの本を書いた彼の気持ちがわかったような気がした。
彼もずっとこんな思いだったのだろうか。想い人を海の向こうへ残していった時、彼も今の私と同じ思いを抱いていたのかな。
だとしたら、あの人は相当苦しかったんだろうなあ。罪悪感に囚われて生き続けることはこんなにも苦しいんですね。

相変わらず蝉の鳴き声は五月蝿い。きっと、暑さのせいだ。こんなことを思うのも、この本を読もうと思ったのも、あの人のことを思い出したのも、全部。全部、夏の暑さのせいだ。

私は再び本の表紙を見つめて、それからそれをそっと床に置いた。この本を書いていた時、彼はどんな気持ちだったのだろうか。それを思うと、なんだか少しだけ泣きたい。ああ、ごめんなさい、鴎外さん。

 
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