福音書のおしえ 



私はこの人に出逢うためにこの残酷で汚いどうしようもない世界に生まれてきたのかもしれないと、力強い両腕の温もりの中で、芽衣はふとそんなことを思った。

生まれ落ちることに理由なんて無いことはわかっていた。
人間が子を作り未来へ遺していくのは、愛の形なんて美しいものではなく、自分の遺伝子を遺そうとする、ただの本能でしかない。
そうしてこの世界に産み落とされた子供達がやがて成長して、生き残った者だけがまた子を成して、そして自らの遺伝子を遺そうとするのだ。
その、なんとも無意味で無駄に思えるサイクルを繰り返して、自分自身もここに生きているのだと、芽衣はそんなことを思って生きてきた。

明治というこの時代にやって来て、そして此処に留まることを選んで、それから幾度の季節を過ごしただろう。
少しずつ、本当に少しずつ、芽衣の頭の中には、明治時代では無い、本来自分が居るべき場所だった、かつての自分が生きていた場所だった平成の時代の記憶が戻りつつあった。
その記憶は芽衣にとってあまり良いものではなく、むしろ苦々しい思い出ばかりで、記憶を取り戻したことを芽衣に少しばかり後悔させた。
化け物、気持ち悪い、頭がおかしい、ありとあらゆる侮蔑の意味を込めた言葉の羅列。こんな気色の悪い言葉に囲まれて生きてきただなんて、吐き気がした。平成の世界のことを全て思い出して、初めて芽衣はあの胡散臭い奇術師にこの時代へ連れてきてもらったことを感謝した。

記憶を取り戻したことは、愛しい愛しい鴎外へは言わなかった。
話す意味も無かったし、話したところでもう戻れないし、戻る気も少しも無かったからだ。
それよりも、この時代でただ鴎外に愛されて、そして鴎外を愛することのできるいとおしい日常の方が、芽衣にとっては数倍も、数十倍も、数百倍も重要だった。

溢れんばかりの愛情と幸福に包まれた生活の中で、芽衣は考える。
きっと自分は向こうの世界であのまま過ごしていたら、あの汚い言葉の数々に埋もれて、そして人間の生存競争で惨敗して、きっと生き残ることなどできなかっただろう、と。
そして、色々考えに考えた結果、一つの結論に至る。

自分はこの愛しい人に出逢うために、この世界に生まれてきたのかもしれない。

何ともクサイ安っぽい台詞だ。そんなものは安っぽいドラマで吐き出していればいい、だなんてそう考える度に心の中で笑ってやるのだが、だけど、その結論が一番正しい理由のような気がしてならない。
だとしたら、なんて素敵なんだろうと思った。


「僕はね、おまえに出逢えて本当に幸せなんだよ」

抱き締められて、噛み締めるように紡がれるその言葉が、鴎外が、愛しくて堪らなかった。
愛されていると、実感した。
鴎外の言葉に芽衣も「私もです」と返せば、優しく髪を撫でられる。
それから、鴎外の身体がゆっくりと離されて、鼻の頭にそっとキスをひとつ落とされた。
優しい眼差しが、芽衣を見つめる。
初めて出逢ったあの頃よりも、僅かに老いたように見える鴎外の顔。
だけど、その老いに比例するように鴎外に対するいとおしさは際限無く大きくなっていく。
不思議なものね、と芽衣はそう思ってくすりと笑みをこぼした。

「僕はきっと、おまえに出逢うためにこの世界に生まれてきたのかもしれないな」

微笑んで鴎外はそう言って、そしてそっと芽衣の腹部へと手を伸ばした。
僅かな膨らみを見せるそこを、普段は万年筆を握る繊細な手が、まるで宝物を扱うかのように、丁寧に、優しく、触れた。
芽衣も自らの手を腹へと当てて、撫でた。
ここには今、自分と愛しい人との愛の結晶である、小さな生命が息づいている。
宝物なんかよりも、もっともっと大切で愛しい命がここに存在している。

人間が子を作る行為は、遺伝子を未来へ遺そうとするただの本能でしかないと思っていたのは、いつのことだっただろうか。
たとえ子を成すことが人間の本能でしかなくても、愛しい人との間に作られた存在は、愛を具現化した存在なのだと、そう思うようになった。
育んだ愛を具現化する行為を子を作ることだとするのなら、自らもまた愛を具現化した存在なのだと芽衣は考えた。

この汚くて悲しいことで満ちているこの世界に産み落とされる理由は、僅かに蔓延る愛の存在を証明するためなのかもしれない。
芽衣は、きっとたぶん自分はこのどうしようもない世界が大嫌いで、でもどうしても愛さずにはいられないのだろうと、思った。

芽衣は自らの腹部に触れる鴎外の手に自身の手を重ねた。
腹の中で確かに息づく命は、世界の残酷さにいつか疲れて、でも、それでも生きようとするのだろう。
だから、人間はもう何万年という時から今まで、環状線をぐるぐると廻り続けてきたのだ。

胎動と温もりを感じる。

「鴎外さん、私は貴方に出逢えて良かった。生きていて、良かった。ねえ、私は今とても幸せなんです」



(物語は、終わらない。人々は今日も生きている)
 
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