在りし日の貴方 



色素の薄い先輩の細い髪が、窓から射し込むオレンジの光に透けて、綺麗だなあと私は思った。
伏せられた長い睫毛は、彼が瞬きをする度にふるりと動いて、その睫毛が影を落とす端正な顔は物憂げで、そんな先輩が美しくて、たまらなく私は好きだった。

「……なに」

不意に、睫毛が上を向いて隠されていた青々しい若葉の色をした瞳が私を捉えた。
私は驚いて、目を見開いて、先輩の綺麗な顔を見つめた。
彼も、私を見つめた。

「そんなに見られると集中できないんだけど」

本の頁を捲る手を止めて、彼は少し不機嫌そうに柳眉を潜めてそう言った。
ああ、邪魔してしまったと。この人が何よりも愛する時間を私が邪魔をしたのだと出来損ないの脳味噌はようやく理解して、私は焦った。

「す、すみません」

私の言葉に、彼はふん、と鼻を鳴らして再び小さな文字の羅列へと視線を落とした。

放課後の古びた旧図書館。柔らかな西日が射し込むこの場所で、彼は生きていた。

彼と出会ったのは、まだ私が入学して間もない頃だった。
学校独特の閉鎖的な人間関係や空気、それに私はどうしても馴染むことができず、ある日の放課後、どうにかして一人になれる場所が欲しくて逃げるようにして学校の敷地内の隅にひっそりと佇む旧図書館へと私は足を踏み入れた。
それなりに歴史のある学校だったので木造建築のそこはだいぶ古かった。今はほとんど使われることもない、生徒達に忘れ去られたその場所は、少し埃っぽくて、古書のあの独特な匂いがして、だけど私は別に嫌いではなかった。

特にすることもなく、ただ逃げたかっただけの私は、暇潰しがてら図書館内をぐるりと見て回った。
黴臭い革表紙のやけに分厚い図鑑や辞典、埃の被ったロシア文学や題名が掠れた詩集、そこにあるものはまるで時代に取り残されたかのように、ただ存在していた。
そのまま私は奥へ足を進める。
特に意味は無かったし、何か面白い本でもあるのかと期待していたわけでもなかった。

一番奥の、窓からよく夕日が射し込むその場所に、彼がいた。

ダークブラウンの木製の椅子に腰掛けて、黄ばんだ頁を捲る細い指。
透き通る白い肌と肩で切り揃えられた柔らかそうな髪。
ただ、古ぼけた本へと向けられるその視線がゆるりと上げられ、まあるい瞳が私を見つめた。

まさか人がいるとは思っていなかった私は驚いて、だけど何も言えずに彼を見つめる。
綺麗な人だと、思った。

その人は少し驚いたように硝子玉のような大きな瞳を僅かに見開いて、それから口を開いた。

「あんた、こんな所で何してるの?」


それから、私は古びたこの図書館へ放課後、足を運んだ。
自分でも理由はわからなかったけど、古書に埋もれるようにして生きていたあの人があまりにも美しかったから、私は全ての授業が終わると真っ先に図書館へと足を運び続けた。

人は、私と彼以外いなかった。
新たな図書館ができたおかげで、旧図書館へやって来る人間はほとんどいない。
いつ頃からここが使われなくなったのかは私にはわからないけど、他の生徒達は旧図書館がいまだ存在していることすら知らないようだった。

私と彼だけが、そこにいた。

彼は毎日訪れる私を最初は気にしていないようだったけれど、図書館へ通い詰めて二週間が過ぎた頃、読み掛けの本をぱたりと閉じて私に話しかけた。

「…あんたさあ、なに?」

ひどく迷惑そうな顔と声だった。
じろり、と綺麗な翠の瞳が私を捉える。

「いつも僕のこと見てるよね?僕に何か用?」
「えっ、その、」

突然話しかけられて上擦った声を出した私に構わず、彼は言葉を続ける。
男の人にしては、少しだけ高い声だった。

「こんな所にひとりで来ない方がいいんじゃないの?」

私を目を瞬いた。
特に気にもならなかったけれど、理由を聞いてみた。
どうしてですか、と。
予想外の返事に彼は戸惑ったような表情を作った。
私はもう一度、問いかけた。

「どうしてですか?」
「……此処は、物怪が出るから」

至極真面目な顔をして彼が言うから、私は思わず私達しかいない静かな、図書館を見回した。
物怪?お化け?幽霊?
見回してから、私は彼へと視線を戻した。
綺麗な人は、じっと私を見つめている。
どうやら、冗談を言っているようでもなかったから私は、はあ、と間の抜けた返事しか返すことができなかった。
私の返事に気分を害したのか納得いかなかったのか、彼はむっと眉を寄せた。

「…信じてないだろ」

そう言われたって、私には何も見えなかった。
この場所にあるのは、古臭い時代を感じさせる本達と、私、目の前の美しい人だけだった。
だけど、それ以外何も無いこの場所には、そういった物怪やらお化けやらの類のものが出てきても、何もおかしくなさそうだった。
オカルトとかそういうものを信じていないわけでもない。信じているかと問われれば違うけど。
でも、寧ろ、そういう存在の方が良いと思えた。
うわべだけの友達や人間関係よりも、この世界にひっそりと存在する人ではないものの方が、私には余程魅力的に見えた。

何も答えない私に飽きたのか、彼はそのまま視線を端が破れた頁へ戻して、それから私へ向けて言葉を吐き出した。

「…とにかく此処には来るな。此処は、僕の場所だ」
「……貴方だけの場所じゃないでしょう」

そう返せば、ちらりと一瞬だけ本から私に視線が向けられる。
なんとなく、馬鹿じゃないの、と言われた気がした。


日々は、過ぎた。
彼の名前を私は知らない。彼の姿を校舎内で見たことは、一度もなかった。彼は、いつもこの場所に存在していた。
でも、たぶん私より年上に見えたから、私は彼のことを先輩と呼んだ。

彼はいつも一番奥の、窓からよく夕日が射し込むその場所で、木製の椅子に腰掛けては、飽きもせずにただただ本を読み漁っていた。
文字を見送るその瞳はあまりにも真っ直ぐで、私はこの人は本当に本が好きなんだと、文字に触れ合うこの瞬間を本当に愛しているのだと、そう思った。

私はそんか彼の愛する時間を邪魔したくなくて、らしくもなくリルケの詩集なんて読んだりしながら横目で彼の姿を盗み見たりしていた。
先輩は、普段そんな私になんか気にも留めず本を読んでいるけど、時折、気が向いた時に、彼は私に話しかけた。
私から彼に話しかけることは、たった一度もなかった。

「…ねえ、どうして毎日あんたは此処に来るの?新しい図書館があるんだから、こんな誰も使わないような場所へわざわざ来る必要は無いだろ」
「私は此処が好きなんです。此処の空気が好き。でも、それを言うなら先輩だって」
「此処は僕の場所だ。前にも言っただろ。…それに、僕は此処から動けない」

そう言って先輩は笑った。
なんだかひどく悲しそうな、綺麗な笑い方だった。
だから、私は動けないんじゃなくて先輩が動かないんでしょう、なんて言えなくてただ彼を見つめることにした。

本を読み終えた彼は、近くの本棚の中から新たな一冊を取り出した。
だいぶ古いもののようで、手垢で汚れたその本の題名を読み取ることはできなかった。

「…先輩は、本が好きなんですね」
「まあ、嫌いではないけど」

彼は私の手にある詩集へ視線を向けて、それから唄うように言葉を紡いだ。

「これが私の戦いです。あこがれに身を捧げ日々をさまよい続けます」

突然の言葉に私は目を瞬かせたが、彼の言葉に、台詞にどこか覚えがあって、手元にある詩集の頁を前へと戻した。

これが私の戦いです。
あこがれに身を捧げ
日々をさまよい続けます。

先輩が紡いだ言葉とまったく同じものが、その頁にはあった。

「先輩、全部覚えてるんですか?今まで読んだ内容」
「まさか。それは特別に覚えていただけ。あんたが今読んでいるそれ、よく読んでいたから」

それだけ言って、彼は薄汚れた本へと視線を落とした。
外の世界から遮断されて、文字だけが支配する世界にひとりで浸る彼は、美しくて、まるでこの世のものでないように思われた。
そう思うくらい、この人は夢のように儚くて、綺麗だった。
そんな先輩が、好きだった。
それから、私はふと先程の詩を頭に思い浮かべて、考えた。

私は一体、何と戦っているのだろう。
でも、このずるずると流れていく時間の中でさまよっていることだけは確かだった。
じゃあ、先輩は。
彼は、何かと戦っているのだろうか。
この世界の中で、ひとりで戦っているのだろうか。

考えてみても、先輩のことを何も知らない私には、私の脳味噌では、明確な答えなど出てくるはずもなかった。
私はぱたりと詩集を閉じて、黴臭い空間の酸素を思いきり吸ってみた。



放課後、いつものように私は旧図書館へ訪れた。

「あれ」

だけど、珍しく先客がいたようだった。
私が此処へ通うようになってから初めて、私と先輩以外の人間を見たなあ、なんてそんなことを思った。

「菱田君、」
「ああ、綾月か」

菱田君はクラスメイトだった。
隣の席の彼は、いまだクラスに馴染めない私が話せる数少ない人物のひとりだったし、あっさりとした淡白な性格の彼は、話しやすかった。

「どうしたの?」
「ああ、小泉先生から資料を此処に戻してほしいって頼まれたんだ」

まったく、良いように使われてるよね、なんて言って菱田君は小さく息を吐き出した。

「此処、使っている人いるの?」
「え、ああ、俺が知っている限りでは小泉先生だけだよ。なんでも、此処はお化けが出るらしい。ほら、あの先生そういう話、好きだろ?」
「お化け?」
「そう。先輩から聞いた話だと、昔旧図書館で自殺した男子生徒が夕暮れ時になると出るとか何とか、」
「ふうん」

以前、先輩が言っていたことを私は思い出した。
彼が言っていた物怪とは、そのことなんだろうか。
死んでからも図書館に現れるだなんて、余程本が好きだったのだろう。
そんなにも好きだと思うことがあるなんて、少し羨ましいと思った。

「で、綾月は?」
「え?」
「此処に何しにきたの?」

新しい図書館ではなくて、もう使われることは無い旧図書館へと訪れる私に菱田君は純粋な疑問を投げ掛ける。
なんとなく、この話しやすいクラスメイトにも先輩のことは言いたくなかった。
私は、曖昧に笑って言葉を濁らせた。

「うーん、特に用は無いけど…なんとなく?」
「なにそれ」

菱田君は小さく笑った。
綾月はやっぱり変わってる、そう言って彼はそれ以上追及してこなかった。
私はなんだかいたたまれなくなって、違う話題を探した。

「菱田君何読んでるの?」

さっきから椅子にも座らずに年代物の机に手を付いて彼が読む分厚い本へ視線を向けた。

「卒業アルバムだよ。ほら、向こうの図書館には無いだろ。プライバシーがどうのこうのだとかで。まあ、此処に置いてあるのもどうかと思うけど。折角此処まで足を運んだから、読んでみようと思って」
「へえ」

机に積み上げられた卒業アルバムは、随分と時が経っているようだった。
何気無くその中の一冊を手にとって、頁を捲る。
昭和50年代のものだった。

ぺらり、と頁を捲っていくと、少し色褪せた写真があった。
数ある写真の中で、ふと目に留まるものがあって、私は頁を捲る手を止めた。

とあるクラスの集合写真。
決して他の生徒達と交わることのない、左上の枠に、よく見慣れた顔があった。

「……先輩…?」

少し不機嫌そうな顔。だけど、他の生徒よりも一際目立つ整った顔がそこにはあった。
私は、そのクラスの頁へと目を移す。
ひとりずつ写った写真。その中に先輩の姿を探した。
そして、そこで彼の姿を見つけた時、軽く目眩がした。

泉鏡花。
享年18。

「…綾月?」

突然黙った私の顔を、菱田君が訝しげに覗き込んだ。
心臓の音がやけにうるさい。
目の前に突き付けられた事実を受け入れることを、脳味噌が拒否している。
彼は、あの場所で生きていた。生きていた?呼吸をしていた?

「ねえ、大丈夫?顔色悪いけどーー」

菱田君の声を振り切って、私は図書館の一番奥へ足を進める。
自然と早足になっていた。
きっと、よく夕日が射し込むあの場所で、先輩はいつものように椅子に腰掛けて本を読んでいる。
あの写真は、嘘だ、って言ってほしかった。
何言ってるのあんた、と呆れた顔をして、また再び文字の世界に耽って。

「…先輩!」

祈るような気持ちで、私は一番奥の特等席にいるはずの彼を呼んだ。

だけど、そこにはいつもいるはずの美しい人の姿は無かった。



それから、私は旧図書館へ足を運ばなくなった。

「おはよう、綾月」
「菱田君、おはよう」

隣の席の彼は、明らかに様子がおかしかったあの日の私について何も触れてこなかった。
菱田君のその優しさが、ただ有り難かった。

「綾月。今日部活あるんだけど、どうする?先帰っててくれてもいいけど」
「ううん、待ってるよ」

図書館に行かなくなった代わりに、私は放課後菱田君と一緒に帰ることが多くなった。
美術部に所属している菱田君を教室で待ったり、たまに美術室を覗きに行ったり。
実際のところ、今まではあの人と過ごした放課後の時間を、どう使えばいいのかわからなかった。


放課後、部活に行った菱田君をいつも通り教室で待つ。
スマホを片手に、液晶画面を指でなぞる。
なんだか、ひどく無駄な時間のように思えた。
西日の射し込むあの場所で、古びた本に囲まれて、それを読んで、それから、あの人をこっそり見つめて、気紛れに話しかけてきたあの人の言葉を聞いている方が、余程有意義な時間だと思った。

「おや、綾月サン」

ふと名前を呼ばれて、私は声の主へと視線を向ける。
ドアからひょっこりと顔を覗かせた小泉先生が私を見ていた。

「どうしたんですか?もう皆帰りましたよ」
「ああ、人を待っているんです」
「なるほど、青春とはいいものですね!」
「は、はあ…?」

なんとなく会話が噛み合っていないような気がするけど、私は小泉先生が両手に抱えているものへ視線を送る。
それに気付いたのか、ああ、と先生はにっこりと笑みを浮かべて手にしたそれを私に見せた。

「旧図書館から拝借したものですよ。あそこは、中々面白い本が揃っている」

革表紙の図鑑に、端がぼろぼろになった文庫本など、小泉先生の腕の中には見慣れたあの古書達があった。
小泉先生は失礼しますね、なんて言って教室に入ると私の隣の席へ腰掛けて、大量の古書を机へ置いた。

「実は重くて腕が疲れていたんです。運動不足のせいですかね」
「…小泉先生は、よく旧図書館へ行かれるんですか?」
「ええ。よくって言うほどでも無いですが…。趣味と、授業の資料を求めに行くくらいで」

にこやかに小泉先生は話す。
先生は、彼と会ったことあるのだろうか。

「小泉先生、旧図書館の噂をご存知ですか?」
「噂、とは?お化けが出るってやつですか?」
「はい、まあ、そんな感じです。お化けって言うより、昔自殺した男子生徒らしいですけど」
「…ああ」
「……本当に、自殺なんてあったんですか?あの場所で」

私の言葉に、小泉先生は微笑みを浮かべたまま静かに目を伏せた。
それから、机に置いた古書を指で撫でた。

「たしかに、あったようですよ。もう30年以上も前のことですけど」

私がこの学校に転勤してくる前のことです、と彼は言った。

「…私も詳しい話は知りません。噂の正体が、そこで命を絶った彼かどうかもわかりません」
「…先生は、あの場所で誰かに会ったことありますか?」
「……いいえ、ありません。残念ながら私には、何も見えませんから」

アイスブルーとフレンチグレイの瞳が静かに笑っていた。
先生は、机に積み上げた本の中に紛れる色褪せた詩集を一冊取り出した。
なんとなく見覚えのあるそれは、いつかあの場所で読んだリルケだった。

「でも、もしもあそこに存在しているのがそこで自ら命を絶った生徒だったら、彼は余程本を、文字を、言葉を愛しているのでしょうね」

そう言って自然な流れでその薄汚い詩集を先生は私の目の前に差し出してきて、私もそれを自然な流れで受け取る。
なんとなく、泣きたくなった。
悲しいのかもわからない。
ただ、泣きたかった。

「…私は、あの場所でひとりの人と出会いました。とても、とても、綺麗な人でした」

小泉先生は私のことを馬鹿にするでもなく、頭のおかしい女だと笑うこともなくただ微笑っていた。
たぶん、先輩の姿は小泉先生にも菱田君にも見えない。だけど、私には彼を見ることができた。

どうしようもなく、あの人に会いたくて仕方なかった。
心臓が、出来損ないの脳味噌が、全身の細胞が、あの美しい人に会いたいと叫んでいた。

いつかの詩の一節を思い出した。

これが私の戦いです。
あこがれに身を捧げ
日々をさまよい続けます。

少しだけ、その詩の意味が分かったような気がした。

私は小泉先生に頭を下げて、リルケの詩集を持って、教室を出て、廊下を駆け抜けた。
後で、菱田君に一緒に帰れなくなったとラインで謝らなければと、頭の隅で思った。



はあはあと肩で呼吸を繰り返しながら、私は静寂が支配する少し懐かしい空間へ足を踏み入れた。
教室から全力疾走したおかげで、心臓がばくばくと喧しくて仕方ない。
もう、随分と長い間此処へ訪れてなかったような気がした。

黴臭い革表紙のやけに分厚い図鑑や辞典、埃の被ったロシア文学や題名が掠れた詩集、そこにあるものはまるで時代に取り残されたかのように、ただ存在していた。
相変わらずその場所は、少し埃っぽくて、古書のあの独特な匂いがして、だけど、やはり私は別に嫌いではなかったのだ。

柔らかな西日が包み込む、この広くも狭くもない空間の、一番奥へ私は足を進める。
彼は、確かにその場所で生きていた。
呼吸はしていなかったけど、生きていた。

予想通り、というか私には確信めいたものがあったけれど、先輩はいつもと変わらずに、そこにいた。
古書達に囲まれて、埋もれるようにして、そうしてひとりで、文字の世界で生きていた。
オレンジ色の光が先輩の白い肌や、色素の薄い細い髪を透かす。
相変わらず、彼は綺麗な人だった。

先輩はいつも通り私には気にも留めず、細い白い指で黄ばんだ頁を捲っていく。
私は近くの椅子に腰掛けて、彼を見つめた。

「これが私の戦いです。あこがれに身を捧げ日々をさまよい続けます」

私が紡いだそれに、先輩はゆっくりと本に向けていた視線を私へと移した。
美しい二つの翠が、私を真っ直ぐに射抜く。
一瞬、この視線に、殺されてしまいたいと思った。
こんなにも綺麗な瞳に射抜かれて死ねるのなら、それはなんだかとても幸せなことのように思えた。

「…それから、強くなり広くなり、数知れぬ根を生の中深くおろすのです」

彼の薄い唇が、ひとつひとつの言の葉を、大切な宝物のようにひどく大事そうに紡ぎ出す。
私は黙って先輩を見つめた。

「…その詩の続きだよ。僕には、それができなかった」

先輩は目を伏せて、小さく笑った。
長い睫毛が、陶器のように白く無機質な肌に影を落とした。

これが私の戦いです。
あこがれに身を捧げ
日々をさまよい続けます。
それから、強くなり広くなり、
数知れぬ根を
生の中深くおろすのですーー

ぼろぼろの詩集の中の一節。
彼は何かと戦っていたのかもしれない。そうして、苦しんで、この世界の残酷さに、途方に暮れて、日々をずっとさまよい続けていたのかもしれない。
そして、普通だったら世界の酷さに慣れて、受け流せるようになって、それが強さだと勘違いして、そうして大人になっていくはずなのに、彼にはそれができなかったのかもしれない。
全部、憶測でしかなくて、私はこの人のことを何も知らないけど。

「……死んだら、やっと解放されると思ってた。こんな世界、だいっきらいだったから」

ぽつりぽつりと彼の唇からは、叫びにも近いその痛々しい呟きが零れていく。
窓から射し込む夕日が、眩しくて、きらきらと先輩を包んで。

「…だけど、次に目を覚ました時、僕は此処にいた。たしかに、この場所で手首を切って死んだはずだったのに、僕は此処に存在していたんだ」

絶望したよ、とそう言った言葉のひとつひとつが何故かすごく悲しかった。
だけど、一言一句聞き逃さないように、私は耳をすませる。
どんなことでもいいから、彼のことを少しでも理解したかった。知りたかった。

「そうして時が流れて、だけど僕は相変わらず此処から動けなくて、だけど、あんたが僕の前に現れた」

本をぱたんと閉じて、先輩は泣き笑いのような表情を、その顔に浮かべた。
その表情がなんだか悲しくて、愛しくて、私は泣きたくなったけれど、堪えて彼を見つめ続ける。

「驚いたよ。最初は。まさか僕が見えるなんて。僕を、見つけてくれるなんて」
「………先輩、」
「あんたは僕が止めたのに馬鹿みたいに毎日此処に来て。いや、実際あんたは馬鹿なんだろうな。…だけど、僕はあんたがいるあの空間はそこまで嫌いじゃなかったよ」

馬鹿だ、と彼は繰り返したけど、こんなにも優しく馬鹿だなんて言われたら、私は何も言えなくて、ぎゅうっとスカートの裾を握り締めた。
私も、嫌いじゃなかった。
オレンジの光に包まれて、先輩と古書達と過ごすあの放課後の時間が、少し埃っぽいあの空間が、私は好きだった。
また、あの日々が続けば良いと思う。
だけど、それは無理なんだと私はわかってしまった。
西日が、先輩を照らして、先輩が透き通っているのを、私は見てしまった。いつもの透ける、ではなくて、本当に彼の身体が透けている。

ああ、私の世界が終わりを告げる。

「……先輩、好きです。私は、貴方が好きです」
「………あんたは、やっぱり馬鹿だ」

彼の言う通り、私は馬鹿みたいにぼろぼろと涙を流した。
私に近付いた彼の腕が伸びて、そっと頬を伝う雫に触れる。
感触も体温も何も感じないけれど、だけど、透けた先輩の細い指があまりにも優しかったから、私はさらに涙をばたばたとこぼした。
そんな私を見て、彼は馬鹿だね、ともう一度言って、それから静かに笑った。

彼がこんなにも優しく、綺麗に笑う人だったなんて私は知らなかった。
そして、私は、もう二度とこの美しい人に会えないんだと、そう理解してしまった。



「綾月、帰ろう」
「あ、待ってよ。菱田君」

慌てて靴を履き替えて、下駄箱で待つ菱田君のもとへ走った。
ローファーが地面を蹴る小気味良い音が響いた。

「そんなに慌てなくても待ってるって」

菱田君はそう笑って、私へ左手を差し出す。
私がその手をとると、きゅうっと優しく、彼の大きな掌が私の右手を包み込んだ。

「帰ろうか」
「うん」

手を繋いで、二人で校門まで歩いていく。
太陽は西に傾いて、空はオレンジ色に染まっていた。
他愛ない話をして、たとえば変わり者の現代文の教師のこととか駅前に出来た新しいお店のこととか、そんな話を。
私にとっては、少し気恥ずかしい、だけども決して居心地は悪くない空間だった。

菱田君とは、手は繋ぐけどキスはしない関係になった。
クラスの噂好きの女の子には菱田君と付き合ってるの?なんて聞かれたりしたけれど、だけど、私と彼は恋人同士などでは無いし、だからといってただの友達でもなかったから、私は曖昧に笑って誤魔化すことしかできなかった。
菱田君は優しいし話しやすい。
もしも、仮に、菱田君と付き合ったのなら、たぶんそれはすごく居心地が良いのだろう。
だけど私は、今のこの曖昧な関係が嫌いではなかったから、今はこのままでも良いと思う。
キスをしたり、抱き締めたり抱き締められたりする関係より、手を繋いで何の意味も無い会話をする関係の方が、私は気に入っていた。

「ああ、そういえば、旧図書館取り壊されたんだって?」

思い出したように、菱田君が言った。
私は頷いて、放課後過ごしたあの場所のことを思い浮かべた。

旧図書館が取り壊されたのは、ついこの前のことだった。

時代の流れと共に人々に忘れ去られたあの場所は、解体作業もひっそりと、誰にも知られずに行われた。
あの場所にあった古書達は、古本屋に売られたり、どこかに寄贈したり、処分されたものもあった。

私の鞄には、今もリルケの詩集が入ったままだった。
なんとなく返す機会を失って、その間に図書館は取り壊されてしまったから。

「…寂しい?」

口を閉じた私の顔をひょいっと覗き込んで、菱田君はそう尋ねた。
私は、緩く首を横に振るう。

「私は、大丈夫だよ」
「……そっか」

私の言葉に菱田君は笑う。
彼もまた、優しく笑う人だった。

それを見て、私はかつて、あの古びた図書館で生きていた人のことを思い出した。

夕日が射し込む放課後の旧図書館。
その一番奥の特等席で古書に埋もれるようにして、あの人は存在していた。
誰よりも本を愛し文字を愛し、言葉を愛した美しい人。

もう彼とは二度と会うことはない。
少し埃っぽい、だけど居心地の良かったあの空間も、緩やかに時が流れていくあの人と過ごした二人の世界も、もう二度と帰ってはこない。

ふわりと生温い風が頬を撫でて髪を揺らした。
私はどこまでも綺麗な夕焼け空を見上げた。隣にいる菱田君も一緒に空を見上げた。

「…綺麗だね」
「…うん、綺麗だ」

たぶん、私はこうして自分の意志とは関係なしに大人になっていく。
日々をさまよい続けて、苦しんで悩んで、そうして大人になるのだ。
それはなんだか悲しいことで、だけど私はそれでもこの世界で生きていたいと、そう思った。

「…綾月、余所見してるとぶつかるぞ」
「わかってるよ。菱田君は心配し過ぎ」

いつの間にか視線を元に戻していた菱田君は呆れたようにそう言って、それからやっぱり笑う。私も、一緒に笑った。

右手を包む、私よりもずっと大きい掌があまりにも優しくて温かいから、私はまだこのどこまでも残酷な世界で生きていけると思った。

茜色の空は、少しずつ夜の濃紺が侵食しようとしていた。
ああ、綺麗だな、と思った。

今日も世界は美しい。



(これが私の戦いです。
あこがれに身を捧げ
日々をさまよい続けます。
それから、強くなり広くなり、
数知れぬ根を
生の中深くおろすのですーー
そうして悩みを通して
生から外へ遥かに成熟するのです、
時間から外へ遥かに!

リルケ 第一詩集より)
 
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