「鴎外さん、ごめんなさい」
全く、何を言っているのだ、この愛しい少女は。
僕から、逃げる?
笑止千万!
無駄な話だ。
「なあ、小リス」
僕の可愛いフィアンセ。
僕が僕であり、おまえがおまえである間は、この世界に我々二人が、恋する僕と嫌がるおまえが存在している限りは、一人が逃げ、もう一人が追いかけている限りは、どうやら、僕の人生も結局失敗だったのかもしれない、ーいかにもこれが運命というものかもしれないな。
「僕は、おまえが好きなんだよ」
いくら最善を尽くしたところで成功はまず覚束ない。
だが、この世界で目的が達成できなくてもそれがなんだというのだ?
「芽衣」
「鴎外さん、」
するりと白い陶器のような頬に手を添えると、びくりと華奢な身体が強張ったのがわかった。
愛しい小リス。
僕の、小リス。
要するに、全神経を絶えず緊張させ、挫折の度に涙を拭い、微笑みを浮かべ、そして地にまみれては何度も起き上がり、再度挑戦する。
ーこうやって恋しい少女を追いかけて、一生を終える。
ただ、それだけのことだ。
「…鴎外さん、私は、」
だが、もしも、逃げるおまえが何処か遠い所から、泥塗れになりながら苦境に喘ぐ僕をほんの少し、ちらっとでもその視界の端に入れてくれたのなら、たとえ今までの望みが絶え果てていたとしても、新しい望みが、おまえという目標に向かって、きっと僕の心に湧いてこよう。
「…いいんだ、芽衣」
必死に言葉を繋げようとする少女に緩く首を振って、それからその赤い小さな唇に人指し指を押し当てる。
戸惑った蜂蜜色の瞳が、僕を見上げた。
「おまえはきっと僕を好きになる」
ーそうだ、それは翕然としてだ!
絶えず、僕から離れようとする小リスよ!
「愛しているよ、芽衣」
(The end of the man that this lived in love)
ロバート・ブラウニングの『愛に生きる』から。