※死ネタ
夏の終わり、もう彼の命がそう長く残っていないことを悟った。
痩せた身体と、もう筆を取ることさえできなくなった彼の姿はどこまでも痛々しく、私はどうしようもなく悲しくなって、だけど、どうすることもできずに時間は流れた。
私はどうにか彼をこの世界に留めておきたくて、何度も彼の名を呼ぶ。
その度に「しつこいよ」と弱々しく笑いながら、それでも言葉を返してくれるその姿に、益々私は深い悲しみに襲われるのだ。
だけど、私は彼の前でなど泣けやしない。
そんなことをしたら、きっと、彼はひどく悲しむだろうと。
彼が悲しむ姿は見たくない。そんなものは大嫌いだ。
私はどんな時でも笑顔で傍に在ろうと、彼の居場所となれるよう在ろうと、そう心に決めていたから。
だから、私は泣かなかった。
彼の死の間際も、そして彼がこの世界からいなくなった時も、涙の一粒も流さなかった。
「芽衣」
「お久しぶりですね、鴎外さん」
私が鴎外さんと再会したのは、彼がいなくなってから半年後のことだった。
私と彼が一緒に暮らしていたそう大きくもない家を訪れた鴎外さんは、私が屋敷で暮らしていた時よりも老けていた。
きっと、鴎外さんの瞳にも私はそう映っているのだろう。
「…そうだな、久しぶり、芽衣」
「どうぞ上がってください。何も無いですが」
家に足を踏み入れた鴎外さんは、私の記憶の彼らしくもなく無口であった。
お茶を出せば、鴎外さんはありがとうすまないね、とだけ言って再び黙り込む。
そうしてしばらくしてから、やっと鴎外さんは口を開いた。
「…おまえは、これからどうするつもりなんだい?」
ある意味、予想通りの言葉だった。
「どうする、とは?」
「…僕は、おまえさえ望むのなら、またもう一度あの頃のように僕の屋敷で暮らしたって構わない」
「…お気持ちは嬉しいです。でも、鴎外さんのお屋敷には、奥様やお子様達が暮らしているでしょう」
「そんなこと気にしなくていい。それは僕が何とかする。…それに、婦人の一人暮らしは大変だと思うのだが」
最後の言葉は、ひどく言いづらそうだった。
しかし、鴎外さんの言う通りだろう。
平成の世ならまだしも、この時代ならきっと、私の思っている以上に女一人で暮らしていくことは難しいと思う。
「…そうですね、きっと困ることも色々と出てくると思います」
「じゃあ、」
「でも、私は春草さんと過ごしたこの場所を離れたくありません」
私の言葉に鴎外さんは目を伏せて、静かに笑った。
「…はは、僕はまたフラれてしまったようだ」
「そんなこと…」
「いいんだ、なんとなくそんな気はしてたんだ。…だが、おまえが僕のもとへ来るはずがないとわかっていながら、僕は少し期待をしていた。おまえが今度こそ僕のもとへ来てくれるんじゃないかと。…最低な男だと思うだろう?」
「…いいえ、鴎外さんは優しい人です」
鴎外さんは平成の世からやって来た見ず知らずの私を、あの夜助けてくれた。
迷惑でしかない私の存在を疎むこともなく、鴎外さんは良くしてくれた。
「私は鴎外さんへの恩は一生忘れません。鴎外さんがいたから、私はこの場所で生きていくことができました」
「…大袈裟だな。僕はそんな大それたことなどしていない」
鴎外さんはそう言って、苦笑を浮かべた。
だけど、その笑みは穏やかなものだった。
「…春草は、おまえをちゃんと大切にしてくれたかい?」
「……ええ、大切にしてくれました。私には、勿体ないくらいに」
「…そうか。おまえ達は仲が良いからなあ」
「………そうですね。とても、とても、幸せでした」
胸の奥底に鉛が落ちていくようか感覚。
この感覚は、嫌い。
「…芽衣、泣いて良いんだよ」
不意に、鴎外さんは言った。
鴎外さんの瞳を見つめると、その黄金色は静かに凪いでいた。
「…我慢なんてしなくていい。泣きたい時は泣いていい」
「…そんな、私は、」
「芽衣」
ふと、鴎外さんの声に彼の声が重なったような気がした。
芽衣、と。
今際の際、彼は私に愛していると言った。
もう話すことすら困難だったというのに、彼は私の頬に手を伸ばして、もうほとんど光を失った瞳で、私を見つめてそう言った。
私は、愛されていた。
確かに、彼に愛されていた。
「…春草さん、」
半年ぶりに口にしたその名前は、驚くほど唇に馴染んだ。
「春草、さん」
気付いた時には、遅かった。
溢れ出した涙は、止まることは知らなくて、次から次へと両目から流れていく。
私は、幼い子供のようにしゃくりあげながら、ただ彼の名前を呼び続けた。
「…春草、さんっ、…春草さん、」
私は、彼が好きだった。
彼を愛していた。
彼はもうここにはいない。
どこにもいない。
悲しい、悲しい、悲しい。
「……っ、」
「…感情を殺す必要なんて無いんだよ、芽衣。嬉しい時には笑って悲しい時には好きなだけ泣けばいい。春草は、おまえが泣くことを嫌ったはずだが、だけど何よりもおまえが感情を押し殺して無理に笑うことの方が、もっともっと嫌いだろう」
鴎外さんの指が私の瞳から零れる雫をそっと拭う。
「……春草さんがいてくれるだけで、私は、すごく幸せでした、」
「うん」
もう私はあの細い指に触れられることも、綺麗な瞳に見つめられることも、彼に名前を呼ばれることも、二度と無い。
どうしようもない悲しさが私を苦しめるけれど、だけど頭の中を巡るのは、優しい記憶ばかりで。
ねえ、春草さん。
今だけは、泣くことをどうか許してください。
明日からはきっと、笑えるはずだから。
私は目を閉じて、彼を想った。
(愛しています、ずっと)