さようなら、さようなら 



彼女が幸せならば、俺はそれで良いと思ったのだ。


「春草さん、本当に行っちゃうんですか?」
「ああ」

眉を下げ、今にも泣き出しそうな表情を浮かべる彼女。
俺はそれを気にしてない風を装って、手にした小説のページを捲る。
ぺらり、と俺と彼女しかいない静かな空間に紙が擦れる音が響き渡る。

「もう、向こうへ行く準備も済んだし」
「……アメリカは、遠いですよね」

彼女は、小さく呟いた。
海のずっとずっと向こうにあるあの国は、遠い。それは、そう簡単に会える距離でもないくらい、遠いのだ。
だから、俺は岡倉天心先生達と共にアメリカへ向かうことを決めたのだ。

「…何?もしかして寂しいの?」
「そりゃあ、当たり前ですよ!」
「ふぅん。でも、大丈夫だろ。君には鴎外さんがいるんだから」

俺がアメリカ行きを決める少し前、彼女は正式に鴎外さんの妻となった。

俺は二人が互いに愛してあっていたのを十分知っていたつもりだし、何よりも彼女が今までで一番嬉しそうだったから、だからこの屋敷を離れることを決めた。

新婚の二人を邪魔することも、彼女の幸せそうな顔を見ることも、二人が仲睦まじく愛し合う姿も、俺にはできない。

「だから、せいぜい二人で仲良く暮らしなよ」

そう言った瞬間、胸の奥が小さく傷んだのはきっと、俺の気のせいだ。

「春草さん」

彼女が俺の名前を呼ぶ。
俺は、読みかけの小説を閉じて彼女の顔を見た。

「春草さん、ありがとうございます。…どうか、お元気で」


ーー好きだよ。

もしも、俺にそう言える勇気があったのなら、こんなにも苦しくは無かったのだろうか。
あの人の隣で幸せそうに笑う彼女なんて見ることができなくて、だから俺は遠い遠い場所へ逃げるのだ。
だけど、どうか彼女には幸せになってほしいと俺は思う。

「…じゃあね」


(どうか、君に幸多からんことを)
 
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