酒に呑まれないでください。 



私、綾月芽衣は泣きたかった。


その夜は、いつも決まった時間に帰ってくる鴎外さんにしては珍しく、帰りが遅かった。
サンルームで鴎外さんの帰りを待ちながら、私は呟いた。

「鴎外さん遅いですね…」
「いつも牛肉のことばかり考えているどこかの誰かとは違って、鴎外さんは忙しい人だからね」
「…それってまさか私のことですか?」
「君以外に誰がいるの?」

細い指先で本のページを捲りながら、春草さんは相変わらずの無表情で淡々と言葉を紡いだ。
春草さんの言葉を否定できないところが悲しい。
そりゃあ確かに私は人一倍食い意地が張っているけれども。

「…鴎外さんに早く帰ってきてほしいんだ?」
「え?」

彼の言葉に顔を上げると、春草さんの視線は本から私に移されていて、若草色の綺麗な双眼が私を見つめていた。

「…君ってさ、本当にわかりやすいよね」
「ど、どういう意味ですか?」
「さあね。まあ、そろそろ鴎外さんが帰ってくるんじゃないの?」

彼の言葉と同時に、サンルームのドアがいきなり開かれた。

「ただいま帰ったよ!子リスちゃん、春草!」

端正な顔にいつも通りの優雅な笑みを浮かべた鴎外さん。だけど私は、なんだか違和感を感じた。

「鴎外さん、おかえりなさい」
「うむ。子リスちゃん、おまえは相変わらず可愛らしい!」
「え?」
「さすが、僕のフィアンセだ」

にこにこと笑いながら、鴎外さんは私を強く抱きしめた。

「お、鴎外さん!?」
「うーん、おまえは本当に可愛らしいなあ。食べてしまいたいくらいだ」

甘い煙草とインクの匂いに混ざってふわりと漂ってくるのはアルコール臭。
なんだか、すごく、ものすごく嫌な予感がする。

「…鴎外さん」
「なんだい?子リス」
「……もしかして、お酒呑みましたか?」

そう、こういう時の嫌な予感というものは見事に当たるものでして。

「うむ。実に美味しいものだったよ」

憎たらしいほど綺麗な顔に満面の笑みを浮かべて、鴎外さんは大きく頷いた。


「子リスちゃん、おまえは本当に可愛いなあ」
「ちょ、ちょっとどこ触ってるんですか!」
「この膨れた頬もまるで世界中のリスが嫉妬するほど可愛らしい」
「これはもとからです!ていうか、鴎外さん酔っ払ってますよね!?」
「うん?僕は酔っ払ってなどいない」
「酔っ払いは皆そう言うんです!」


容姿端麗。頭脳明晰。才色兼備。
なんでも完璧に器用に鴎外さんはやってのける。
…ただ、一つ言っておきたいことがある。

鴎外さんは、下戸なのだ。


春草さんは面倒なことになると思ったのか、「俺は学校の課題がありますから」とかなんとか言って簡単に私を見捨てた。
私が饅頭茶漬けを春草さんに押し付けた時の彼の気持ちがこの時やっとわかったよ。

(…春草さん、今まですみませんでした…)


「お、鴎外さんセクハラで訴えますよ!」
「はははっ!おまえは実に愉快な娘だなあ」

普段から鴎外さんは過度なスキンシップが多い。
それはもう現代人である私ですら、やり過ぎだよって思うくらいなほど。
そんな鴎外さんのスキンシップは、お酒を呑むとさらに増えて過剰なものになるらしい。
現に今、私はその過剰なスキンシップにものすごく困っている。

「芽衣」

低い甘い響きで名前を呼ばれる。
鴎外さんの大きな掌がするりと私の頬を撫でた。
黄金色の瞳が熱っぽく私を見つめている。
酔っ払っているせいなのか、目尻が赤く染まっていて、とても色っぽい。

「芽衣」

もう一度名前を呼ばれる。
嗚呼、だめだって。
そんな声で私を呼ばないでよ。
鼓動が速くなって、顔が熱い。
恥ずかしくて、私は鴎外さんの熱っぽい視線から逃れるように俯いた。

「…芽衣、好きだよ」

鴎外さんの言葉に弾かれたように顔を上げると、リップ音と共に唇に柔らかい感触。
目を大きく見開いてフリーズする私を見て、鴎外さんは小さく笑みを零した。
それから鴎外さんは私の耳元に口を寄せて、低く囁いた。

「夜はまだ長い」


酔っ払った鴎外さんは、それはもう大変なことになる。
鴎外さんにはお酒を呑ませない方が良いと、私はこの夜身を持って思い知ったのだ。




おまけ

「……ふむ…」
「どうしたんですか、鴎外さん」
「ああ、春草か。いや、少し考え事をしていたのだ」
「考え事とは?」
「うん、子リスちゃんが何故か朝から一言も口をきいてくれないのだよ」
「はあ」
「ついに子リスちゃんにも反抗期がやってきたのか…」
「…鴎外さん、昨晩のことを何も覚えていないんですか?」
「昨晩?…はて、何かあっただろうか」
「……鴎外さん、どうか酒には呑まれないでください」
 
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