水葬 



※死ネタ







「海が、見たいのです」

とある夏の日、昔よりも幾分と痩せて白くなった妻がそう言った。




ふらりふらりと頼りない足取りで砂浜を踏みしめる華奢な身体を支えながら、俺はその横顔を見つめた。
肉が削げ落ちた頬、青白い肌。だけど、美しい横顔だった。自分の隣を歩く女は、歳を重ねる度に美しくなっている気がする。

「少し、疲れました」

袖を引っ張ってそう催促する妻の言葉のまま、俺達は砂浜の上へ腰を下ろした。
紺地に白い朝顔が描かれた浴衣に砂が付くことにも構わず、彼女は俺にもたれ掛かったまま、青い揺れる海を見つめる。
穏やかな海だった。空には白い雲がふわりと浮かび、潮風が頬を掠める。時折聞こえる波の音は、まるで子守唄のように心地好い。

「…海は大きいのですね」
「ああ」
「この向こうには何があるのですか?」
「ここと何も、変わらない。言語や姿が多少違うだけの人間が争い、血を流しているだけだ」
「千景さんは夢がありませんね」

結っていない黒髪が風でゆらゆらと揺れる。海鳥が深い青い水の上を飛び回っている。

「穏やかですね、とても」

彼女はそう言い、それからけほりと小さな咳をひとつした。

「ねえ、千景さん。ひとつ、お願いがあります」
「……なんだ」
「私が死んだら、この海に葬ってください」

妻の声は、今日の日と同じ、どこまでもどこまでも穏やかな声だった。
俺は彼女へと視線を向ける。
琥珀の色の瞳と視線が絡み合う。

「私は直に死にます」

彼女はまたけほりとひとつ咳をした。

「そう遠くない未来に私は千景さんを置いていきます。だから、これは、せめてもの私の意地なのです」
「……千鶴、」
「私達は忘れてしまう生き物なんです。私は、貴方に忘れられてしまうのが恐ろしい。でも、この大きな海に私の死体を葬れば、千景さんが海を見る度に少しは私のことを思い出してくれるでしょう?」
「……馬鹿な女だな、おまえは」
「ええ。そんな女の我儘を聞いてください」

遠くでは海鳥の声と波の音。
俺は隣で微笑む女の顔をただじっと見つめた。
彼女が変な咳を繰り返すようになった時も、日に日に痩せて青白くなっていった時も、医者から不治の病だと告げられた時も、俺にはどうすることもできなかった。だからといって、これが運命だったとも、神慮なのだと思うこともできなかった。

「私が死んだら、泣いてくれますか?」

するりと細い指先が頬を滑る。
その瞬間、身体が勝手に動き、気付いた時には華奢な身体を抱き締めていた。

「千景さん、」
「千鶴、いくな」

細い腕が背中に回される。
どうしようもなく、腕の中にいるこの女が愛しくて愛しくて堪らなかった。
それと同時に、残された時間の儚さに少しだけ泣きたくなった。

「千景さんは、相変わらず我儘ですね、」

彼女はそう言って笑った。だけど、その声は少しだけ震えていた。その時、彼女がどんな表情をしていたのか俺には一生わかることはないだろう。もしかしたら、泣いていたのかもしれない。

俺は強く強く彼女を抱き締めた。柔らかな温もりと日だまりの匂い。俺はこれを手放すことになる。



それからしばらくして彼女は亡くなった。夏の暮れのことだった。
彼女の思惑通り、俺は海を見る度に彼女を思い出すことになった。
胸を抉るような痛みは消えず、彼女が死後の場所として選んだこの場所が少し、嫌いになりそうだった。
ああ、だけど俺もきっと死後の場所に此処を選ぶのだろう。なんとなく、彼女が待っている気がした。

砂浜を踏みしめ、それから立ち止まる。海は青く大きかった。ああ、愛してるよ千鶴。



 
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