※救われない
かみさま、かみさま、どうか、お願いです。
どうか、僕達を救ってください。
どうか、彼女だけは許してください。
「……ちづる、ちゃん」
僕の隣で静かに寝息を立てる少女の名前を呼ぶ。
掠れた声は響かず、彼女の鼓膜には声は届かず、夜の静寂だけが僕達を包み込んでいる。
「……ちづる、」
もう一度名前を呼んで、彼女の顔に掛かる漆黒の髪を払う。
ねえ、触れたい。君に触れたい。君を抱きしめたい。君に口付けたい。
狂おしいほどの感情に襲われたけど、その感情は身体の奥からせり上がってきた咳によって留められた。
「…けほ、げほっ、」
彼女が起きないように声を抑えて、彼女から身体を離して口に手を当てた。
「…けほ、」
掌が濡れる感触。生臭い鉄の匂いと味。
口から手を離すと、予想通り掌は吐き出した血で真っ赤に染まっていた。
僕は特に驚きもせず嘆きもせず、ただただ掌にこびり付いた鮮血を見つめていた。
ああ、どうしよう。
彼女が起きてしまう前に、この血を何とかしなければ。
だけど、僕の小さな焦りなど関係なしに、僕の身体は動かない。
もう、動けないのだ。
労咳で骨と皮だけが残ったこの身体は、もう自力で動くことすら困難で、僕には立ち上がる力すら残っていないのだ。
べろり、と掌の血を舐めてみた。
それは生臭くて鉄の味がして、ただ不味いだけだった。
「……おきた、さん?」
ああ、もう駄目じゃないか。
彼女が目覚めてしまった。
彼女にこんな哀れな姿を晒してしまうなんて。
「…おはよう」
「……沖田さん、血が、」
「ごめんね、嫌だよね。だから、僕から離れなきゃ、」
笑いながらそう言えば、彼女は小さく首を横に振るう。
それから僕の口元を汚す血を細い指先で拭った。
「…だめだよ。君の手が汚れちゃう」
「……私が勝手にやってるだけです」
「…だめ、だって」
少し口調を強くしても彼女は静かに僕の身体を汚す血を拭って、それから血で微かに赤くなった僕の唇へ口付けを落とした。
「っ、だめ、だって!」
「どうしてですか?」
僕が拒めば、彼女は悲しそうに顔を歪めた。
「……わかってるくせに、」
「………わかりません。私には、沖田さんの言っていることなんてわかりません、」
そう言葉を紡いで、それから彼女は小さく咳き込んだ。
「…けほっ、」
彼女が咳き込む度に華奢な肩が跳ねて、苦しそうに柳眉が寄せられる。
僕は、それをただ見つめていた。
「………沖田さんだって、気付いているでしょう?」
咳が治まった彼女は、真っ直ぐに琥珀色の瞳を僕に向けた。
…ああ、そうだ。
僕は、本当は知っていた。わかっていた。わかっていたはずだった。
労咳は、伝染する病だ。
「…ちづる、」
「…私、後悔なんてしていないです。沖田さんの、総司さんの傍にいることを決めたのは私です」
違う。違う。違う。
本当は、君は自由に生きていけたんだ。
僕みたいな役立たずの病人なんか見捨てて良かったのに。
彼女は、優しすぎた。
「…そうじ、さん、」
頬に彼女の小さな手が添えられる。
冷たくも温かくもないその手のぬくもりは彼女らしくなく、僕はただ悲しくなった。
どうして、僕だけじゃなくて彼女まで。
この子は、何もしていないのに。
神様なんて、何処にもいない。
「ちづる、」
頬に添えられた手に自らの手を重ねる。
どうか、僕達を救ってください。
どうか、彼女だけは許してください。
どうか、僕をゆるさないで。
「………ごめん、」
呟いた言葉に、彼女は静かに笑った。
それから、もう一度僕に口付けて彼女は言った。
「…大好きですよ、総司さん」
(二人でなら、どこまでも堕ちていけるような気がした)